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1755号(2026年6月)

技術の問題か、ガバナンスの問題か
~ASXのDLT決済システム断念~

吉川 真裕

2026年3月31日、オーストラリア証券投資委員会(ASIC)の委託による独立調査委員会がオーストラリア証券取引所を運営するASXリミテッドに対し、厳しい内容の最終報告書を公表した。報告書はASXが内向的かつ防衛的な企業文化に陥っており、株主還元を優先するあまり市場の重要インフラへの投資を怠り、リスク管理が未成熟であると結論しており、決済システム刷新の失敗など、長年にわたる技術的問題に起因する根深い課題を浮き彫りにし、取引所としての責務を果たすための抜本的な変革を求めている。今回の調査はASXと規制当局との間で長年続いた緊張関係から生まれたものであり、その主な要因は老朽化したCHESS株式決済システムをブロックチェーン技術(DLT)に置き換えるプロジェクトが何億ドルもの資金を費やした末に2022年に中止されたことにあった。この失敗がその後の決済システム障害と重なり、ASXの信頼性は大きく損なわれていた。

本稿では独立調査委員会の最終報告書の概要を紹介した後、ASXによるCHESS株式決済システムのDLT決済システムへの更新断念について考察する。

1 報告書の概要

(1)主要な結論

報告書はASXの問題は深く埋め込まれた構造的欠陥と結論しており、以下の3点をポイントとしている。

① ASXは市場インフラの管理者としての役割から乖離

ASXはオーストラリア金融システムの中核インフラを担う立場だが、長年の意思決定の積み重ねにより、この責務から乖離しており、組織文化・優先順位・ガバナンスが市場全体の安定性よりも自社都合に傾斜していた。

② ガバナンスとリスク管理の長期的な欠陥

重大な問題が長年にわたり深く埋め込まれてきており、CHESS 更新プロジェクトの失敗や運用障害はガバナンス不全・透明性不足・リスク管理の弱さの表れであった。

③ 組織的変革には持続的かつ規律ある実行が不可欠

ASXは中間報告後に改善に向けた動きを開始したが、改革は長期的で大規模な組織変革を伴うものであり、取締役会と経営陣の揺るぎないコミットメントが必要である。

(2)報告書が示す改革ロードマップ

① ガバナンス改革

・取締役会の監督機能強化

・技術・リスク管理に関する専門性の向上

・透明性と説明責任の強化

② リスク管理の抜本的改善

・重大インフラとしてのリスク評価の再構築

・障害発生時の対応力・コミュニケーション改善

③ プロジェクト管理の再設計

CHESS更新の失敗を踏まえ、大規模技術プロジェクトの管理手法を全面的に見直し

④ 組織文化の改革

・サイロ化の解消

・外部ステークホルダーとの協働姿勢の強化

・長期的視点を持つ意思決定プロセスの導入

2 CHESS更新の経緯

(1)1994~2014年:旧CHESSの時代

1994年にCHESS(Clearing House Electronic Subregister System)と名付けられた株式決済システムは稼働を開始した。このシステムは現在もオーストラリア株式市場の清算・決済・名義記録を担う中核インフラとして機能し続けている。2000年から2010年代前半にかけてシステム自体は安定的に稼働していたが、ソフトウェアの老朽化・保守の難しさ・新技術との連携のしづらさが徐々に問題視されるようになっていた。

(2)2015年:インフラ戦略レビュー開始

2015年にASXは市場インフラの戦略的レビューを開始した。その目的は将来の取引量増加・データ機能の高度化・リアルタイム性の向上に対応できる次世代ポスト・トレード基盤を検討することにあった。

(3)2016〜2017年:DLT採用の決定とDigital Assetとの提携

2016年には分散型台帳技術(DLT/ブロックチェーン)が世界的に注目され、ASXもCHESSをDLTベースで置き換える構想を本格的に検討した。そして、2017年12月7日にASXはDigital Asset(米フィンテック)をベンダーとして選定し、世界初のDLTベースの株式清算・決済インフラの導入として大々的に発表した。他方、オーストラリア準備銀行(RBA)やASICなどの規制当局は老朽化したCHESSを置き換える必要性自体には賛同しつつもプロジェクトのリスク監督を強化し始める。

(4)2018〜2019年:最初の遅延と複雑化の兆候

2018年9月4日、当初は2020年前後の稼働を目標としていたが、要件の複雑さ、設計・開発の遅れにより、スケジュール見直しが始まる

2019年8月26日にASXとDigital AssetはVMwareを新たにパートナーとして追加することを公表した。VMwareはDLT台帳基盤の設計、Digital Assetはアプリケーション・ソフトウェアという役割分担に変更したことがアーキテクチャの複雑化と調整コストの増大を招く転機にもなった。

(5)2020〜2021年:度重なる延期と規制当局の懸念表面化

2020年3月25日にASXはCOVID‑19パンデミックによる市場混乱を理由に稼働予定時期を再度延期し、市場参加者からはテスト環境の準備遅れ・仕様変更の多さへの不満が強まっていた

2021年にRBAとASICはCHESS更新を監督上の特別テーマとして取り上げ、プロジェクト・ガバナンス、リスク管理、ステークホルダー・エンゲージメントに対する懸念を明示した。そして、2021年11月にASICはASXに対して清算・決済施設ライセンスに追加義務を課し、プロジェクトの進め方に対する監督を強化した。

(6)2022年:外部レビューと事実上の撤回

2022年前半にプロジェクトはすでに数度の延期を経ており、コスト膨張(約2.5億豪ドル規模)、スケジュールの不透明さが深刻化していた。これを受けて、規制当局がASXに外部レビューの実施を要請し、2022年11月にAccentureによる外部レビューが設計の成熟度不足、パフォーマンス・スケーラビリティの懸念、プロジェクト・ガバナンスの弱さなどを厳しく指摘していることが明らかになった。そして、2022年11月17日、ASXは公式にCHESS更新プロジェクトを一時停止すると発表したが、実態としてはDLTベース案の白紙撤回に近い決断であり、ASICはこれを金融インフラ・ガバナンスにおける分水嶺と評した

(7)2023年:議会・ASICによる本格的な検証フェーズ

2023年にはオーストラリア連邦議会の合同委員会(Parliamentary Joint Committee)がASXガバナンスとCHESS更新プロジェクトをテーマに公聴会を実施し、2023年7月12日に報告書を公表した。2023年5月10日に合同委員会に提出された文書の中でASICはプロジェクトの経緯・ガバナンス不全・市場参加者への影響を詳細に整理し、ASXのガバナンス改革と規制枠組みの見直しの必要性を強調していた

(8)2024年以降:新CHESSロードマップ

2023年11月20日にASXはCHESS更新計画の再設計を完了し、TCS BaNCS(TATA Consultancy Services)を採用してDLTに依存しない形での新たなCHESSロードマップを公表した。この計画はRelease 1で清算システムを2026年に、Release 2で決済・サブレジスター・システムを2028年または2029年に2段階で更新をおこなうというもので、Accentureをソリューション・インテグレーターとして起用することも明らかにされた。その後、独立専門家によるアシュアランス・レポート、新ロードマップの外部評価が段階的に公表され、CHESS Replacementではなく、CHESS Projectとして再構成された新プログラムが進行した。

ところが、2024年12月20日に現行CHESSが障害を起こし、ASXの対応の遅さがRBAやASICの強い反発を招き、これが老朽化したCHESSを早急に更新する必要性を示す結果となった。これを受けてASICは独立調査委員会によるASXに関する調査報告を委託し、2025年12月に公表された中間報告に基づいて1.5億豪ドルの追加資本積み増しを求めた。そして、2026年3月31日に独立調査委員会の最終報告書が公表された。

なお、4月20日にはRelease 1(清算機能)の運用マイルストン完了が公表され、旧DLT案から完全に切り替わった新アーキテクチャでの移行が進んでいる。また、5月14日にASXはAnthony Attia(ユーロネクスト)氏が2026年9月1日にCEOとして就任することを発表し、市場インフラの再構築を主導できる人物として選ばれたと説明している

3 CHESS更新計画変更の評価

ASXによるブロックチェーンに基づく株式決済システム導入の失敗はプログラムが計画通りには動かなかったという意味では技術の問題であった。しかし、多くの報告書が指摘しているように十分な技術的な裏付けがないにもかかわらず、ブロックチェーンの導入に突き進んだガバナンスの問題であったと言えよう。世界で最初に自市場に上場した取引所ということを喧伝してきたASXにとっては世界で最初にブロックチェーンを導入した取引所という名声が経営判断を誤らせることにつながったのであろうと考えられる。

ただし、ブロックチェーンが株式決済には使えないという結論は早計であり、ニューヨーク証券取引所やナスダック、アメリカの中央証券保管機関であるDTCCはブロックチェーンに基づく決済の導入をパイロット・プログラムとして進めていると伝えられている

ブロックチェーンの利点は即時決済(T+0)が可能であり、資金拘束を減らせることにあるが、問題点としてはネッティングの効かないグロス・セトルメントであって決済量の大幅な増加が予想されることが考えられている。売り買いで逆方向の取引や同一クリアリング会員のかかえる逆方向の取引が多い場合には売り買いを相殺できるネッティングは決済量を大幅に削減できるという利点がある。このバランスをどう評価するのかがブロックチェーンによる株式決済の導入決定には欠かせないはずであるが、ASXの文書にはこの評価が明示的には見当たらない。世界で最初のブロックチェーンによる株式決済システムの導入という名声にひかれて冷静な判断がおこなわれていなかったという批判は免れないだろう。

他方、ASXによるブロックチェーン決済システムの導入計画発表当初から会員業者の反対意見が多く聞かれた。会員業者にとっては世界で最初のブロックチェーン決済システムよりも安定して効率的な決済システムが望ましく、不確実な新技術は好ましくなかったと考えられる。こうした反発がテスト時のトラブルと相まってASXに導入断念の決断を強いることになったのであろう。

ASXの失敗の教訓としては、技術的に十分な裏付けをもって関係者と緊密に協議しながらプロジェクトを進めることが肝要であり、強い立場にあったとしても独断的な決定をおこなうことには注意が必要であるということであろう。

注釈

  1. ⑴ Australian Securities and Investments Commission, “Inquiry into the ASX Group Final Report March 2026,” April 2, 2026 (https://download.asic.gov.au/media/l1ons5w2/inquiry-into-the-asx-group-final-report-march-2026.pdf).
  2. ⑵ Australian Securities Exchange, “ASX selects distributed ledger technology to replace CHESS,” 7 December 2017.
  3. ⑶ Australian Securities Exchange, “CHESS Replacement: New Scope and Implementation Plan,” 4 September 2018.
  4. ⑷ Australian Securities Exchange, “ASX, Digital Asset and VMware join forces on DLT: VMware adds support and scale to ASX offering,” 26 August 2019.
  5. ⑸ Australian Securities Exchange, “ASX to consult on CHESS replacement implementation timetable: Formal consultation in June; meanwhile system development continues,” 25 March 2020.
  6. ⑹ Accenture, “ASX CHESS Replacement Application Delivery Review,” November 2022 (https://www.asx.com.au/content/dam/asx/markets/clearing-and-settlement-services/asx-chess-replacement-application-delivery-review-2022.pdf).
  7. ⑺ Australian Securities Exchange, “ASX WILL REASSESS ALL ASPECTS OF THE CHESS REPLACEMENT PROJECT AND DERECOGNISE CAPITALISED SOFTWARE OF $245-255 MILLION PRE-TAX IN 1H23,” 17 November 2022.
  8. ⑻ Parliamentary Joint Committee, “Statutory inquiry into ASIC, the Takeovers Panel, and the corporations legislation,” April 2024 (https://www.aph.gov.au/Parliamentary_Business/Committees/Joint/Corporations_and_Financial_Services/OversightofASIC/Competition_in_clearing_and_settlement_and_the_ASX_CHESS_Replacement_Project).
  9. ⑼ Australian Securities & Investments Commission, “PJC on Corporations and Financial Services Inquiry into the CHESS Replacement Project: Submission by the Australian Securities and Investments Commission,” May 2023 (https://download.asic.gov.au/media/505l3omp/202305-submission-no-7-oversight-of-asic-chess-replacement-project.pdf).
  10. ⑽ Australian Securities Exchange, “ASX ANNOUNCES PRODUCT BASED SOLUTION FOR CHESS REPLACEMENT – INDUSTRY CONSULTATION ON NEXT PHASE TO COMMENCE IN 2024,” 20 November 2023.
  11. ⑾ Australian Securities & Investments Commission, “25-303mr-asic-asx-letter-december-2025,” 14 December 2025 (https://download.asic.gov.au/media/z3clowme/25-303mr-asic-asx-letter-december-2025.pdf?utm_source=copilot.com).
  12. ⑿ Australian Securities Exchange, “ASX CONFIRMS CHESS RELEASE 1 READY FOR MARKET OPEN,” 20 April 2026 (https://www.asx.com.au/content/dam/asx/about/media-releases/2026/31-20-april-2026-asx-confirms-chess-release-1-ready-for-market-open.pdf).
  13. ⒀ Australian Securities Exchange, “ANTHONY ATTIA APPOINTED ASX MANAGING DIRECTOR AND CEO,” 14 May 2026 (file:///C:/Users/user/Downloads/35-14-may-2026-anthony-attia-appointed-asx-managing-director-and-ceo.pdf).
  14. ⒁ Intercontinental Exchange, “New York Stock Exchange and Securitize Agree to Memorandum of Understanding to Support Tokenized Securities,” 24 March 2026 (https://ir.theice.com/press/news-details/2026/New-York-Stock-Exchange-and-Securitize-Agree-to-Memorandum-of-Understanding-to-Support-Tokenized-Securities/default.aspx), Krisztian Sandor, “SEC approves Nasdaq’s move to support tokenized securities trading,” 19 March 2026 (https://www.coindesk.com/policy/2026/03/18/sec-approves-nasdaq-s-move-to-allow-tokenized-securities-trading), DTCC, “DTC’s Tokenization Service to Connect with Stellar Public Blockchain as DTC Advances its Multi-Chain Strategy,” 27 May 2026 (https://www.dtcc.com/news/2026/may/27/tokenization-service-to-connect-with-stellar-public-blockchain-as-dtc-advances-multi-chain-strategy).