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第66巻第5号(2026年5月)

〔証券史録〕歴代証券局長口述記録を読む(その6)

森本 学(当研究所理事長)

1.志場喜徳郎局長(1969年5月~1971年6月)

 志場喜徳郎氏(1942年後期入省)の大蔵省におけるキャリアは、そのほとんどが税務畑(主税局、国税庁など)であったが、加治木局長時代(1966事務年度)に1年間、証券局財務調査官(現在の審議官に相当)を務めたのち証券局長に就任した。

 志場氏は、和歌山県の資産家の出身で大らかな人柄だった。政策的には、資本自由化時代にあって国際的に開かれた制度、世界に通用する証券市場・証券業界を目指した。

⑴ 昭和46年(1971年)の証券取引法の改正等

① 法改正に至る経緯

 証券取引法は1948年に制定され、講和条約発効後の1953年に、募集・売出し制度の簡素化など「占領法規の行過ぎ是正」のための大改正があった後は、久しく改正されていなかった。証券恐慌時の1965年に証取法改正が行われたが、それは免許制への移行、証券外務員の登録制など証券業界の信頼回復に焦点を絞ったものだった。

 このため65年の改正時には、制定以来の年月を経て、証取法に改正を要する点が多々あるのではないか、という指摘が多方面からなされた。65年改正の元となった証取審の報告書「証券業者の免許制等の問題について」(64年12月)では、本論に加えて、「なお、…証券市場の整備を図るためには、証券業者に関する上記の諸問題のほか、更に証券の発行、流通に関する制度等…引き続きこれらの諸問題の検討を行うことを期待する」と付記された。

 またその頃、「山陽特殊鋼事件((昭和)40年(1965年)3月6日会社更生法の適用申請)というのを発端としていわゆる粉飾決算問題1)というものが表面に強く出てきた」。「これが株主の保護(にとって)…非常に大きな問題であるということで社会問題とな」った。こうした状況もあり、65年証取法改正の国会審議においては、「本法の改正は、…有価証券の発行制度の整備改善を含めて行われるべきものである」、「資本市場育成強化のため、今後とも証券取引法の改正が必要である…証券の発行流通に関する制度…等について十分検討を加えるべきである」旨の両院の付帯決議がなされた。

 このため1965年以降、証券局にとっては、ディスクロージャーなどの制度改正を検討・実施することが、いわば宿題となっていた。

② ディスクロージャー制度の改善

 証券会社の免許制を実施した後、1968年6月、証券局は証取審の下に専門委員会(鈴木竹雄委員長)を設置し、ディスクロージャー問題などの検討を開始した2)。小委員会は、翌69年春から審議を開始し、70年10月に中間報告を、同年12月に最終報告書「企業内容開示制度等の整備改善について」を提出した。

 その内容は、まず、「一年決算の会社の場合の中間報告書を義務づけ、…あるいは、経営上、財務上の重要な事態が起こったならば臨時報告書を出させるというふうに、…ディスクロージャーの徹底ということを図った」。

 また、「粉飾決算の場合の責任について、…役員に非常に軽い刑事責任を負わせているという現行規定だけでは不十分であるということで、一方では刑事責任を強化すると同時に、…従来は届出会社のみでありました賠償責任を、当該会社の役員、売出人、公認会計士、引受証券会社というところまで広げていった」。

 開示書類の虚偽記載に係る賠償責任は、元々、米国証券法では提出会社のみならずその役員、公認会計士、引受証券会社もその対象とされ、それを継受した1948年証券取引法も同様の規定振りだった。ところが、1953年改正の際、「提出者以外の者に賠償責任を負わせることは、苛酷であるしまた実際問題としてその適用が困難である3)」として、責任を提出会社に限定した経緯がある。1953年改正が、「投資者保護の観点からは、後退的な性質を有するものも少なくなかった」4)と評される所以である。

 ただし、志場局長は、「この点につきまして、国会や自民党の中でも非常に議論が行われまして、ことに、会社役員の責任については、いわゆる並び大名で判をついたようなときに、…大変な責任じゃないか」と言われた。これに対しては、「それはやはり役員だからといって軒並みにそうなるのでなくて、その責任があるかないかということは個別に挙証されてそうなるということで、よく説明をいたしまして、…了承してもらった」と述べている。

③ 外証法の制定

 1964年のOECD加盟により、我が国はいわゆる「資本自由化」を進めることになり、対内直接投資の自由化は、1967年の第1次自由化より始まった。「証券業」は、1971年の第4次自由化で外資比率50%まで開放され、その後1973年には100%開放となった。こうした状況の中で、(それまで無かった)外国証券会社の国内支店の開設を認める制度が必要と考えられ、その為に「外国証券業者に関する法律」(外証法)が制定された。

 一般には、当時、(メリル・リンチなど)外国証券業者の対日進出意欲が高まっていることが、外証法の立法を必要とする理由として説明された。しかし、志場局長は、「具体的に海外の証券会社から、…資本自由化に伴う日本法人の設立の要望とか、あるいは、支店の設立の要望につきまして、特に強力な要請というものがあったわけではございません」。「アメリカのメリル・リンチあたりからは、そういう意向とか希望が間接的に聞こえてきておりました。しかし、イギリス(の)…ロスチャイルドにしましても、…支店を設けるつもりはないということでありました」。「したがいまして、外国の証券会社からそういう立法化(への)…外圧的なインパクトというものは特になかった」と述べている。

 一方で、「銀行の方はすでに外国銀行の国内支店の設立について受け皿の立法はありますが、証券業務につきましてはなかったわけでありまして、それはやはり適当でない、片手落ちであるということ」、「もう一つは、率直に申しますと、外国の証券会社も日本における業務に非常に関心を持ち、強く要請してくるという時期になってからいわば受身の態勢で立法しようとすると、…外国に比べわが国の場合は、御承知のとおり免許制その他いろいろ政府による規制が加えられておりますので、そういった規制を加えにくくなるおそれがあるんじゃないかということを考えまして、…早く業者立法をつくってしまおうということを考えた」と述べている。

 その後、「国会の質疑の中で、…幾つぐらい外国の証券会社が日本に支店を設けると政府は考えているのかという質問が…あったと思いますけれども、…『まあ数社と思う』と…答弁した記憶がございます」と述べている。実際には、「メリル・リンチの東京支店が(昭和)47年(1972年)の6月に免許を受けて、…5社が…10年の間に日本に支店を設けた…わけでありまして、…案外それは時間を要して実現した5)」のだった6)

④ TOB規制の導入

 資本自由化の別の帰結として、海外からの国内企業の(敵対的を含む)買収が増加するのではないか、ということが予想された。この点に関して、「アメリカを始め欧州におきましては、既にテーク・オーバー・ビッド…(による)株式の買い付けということが制度的に行われている」、「資本市場が国際化してまいりますと、…テーク・オーバー・ビッド…がわが国でも行われる…可能性が強い」、「その場合に、そういった制度の受け皿が何もありませんと、投資家保護の面からして問題であるというふうに、問題を先取りしまして…考えた7)」と述べている。

 しかし、TOB規制の導入に対しては、政府が企業の乗っ取りを公認することになり、かえってそうした活動を誘発することになる、という強い反対論があった。志場局長は、「この問題に…通産省(の)…非常に抵抗といいますか、反発、反対が実はございました」。「通産省としては、下手すると外資に企業が乗っ取られる危険があるので、…政府の認可制とか…承認とか…ということを大分…主張した」。「それに対してわれわれは…要するにディスクロージャーの問題なんだということでやったのですけれども、なかなかどうにもそこのところはわかってもらいにくかった」。最終的には、「それではとてもじゃないが国際的にもたないぞということで、通産省を押し切り、…(ただし)大蔵省に提出された届出書はすぐに通産省に知らせてやる。だから通産省は、それを見た上で…打つべき手がある…と考えたならばそれをやったらよかろう。これはしかし、あくまで政府部内のことであって、制度としては通産大臣は顔を出すべきではないということで通産省との間のけりをつけた8)」と述懐している。

 このようにTOB規制の導入は、かなり議論を呼んだものであったが、その後10年間で実施されたのは2件に過ぎなかった(TOBによる外資の株買集めは無かった9))。

⑤ 法案の国会提出と審議、成立

 志場局長は、「私自身は主税局にずっと長くおりましたもので、…実際に法律を度々改正してきていたわけで…法律改正…については、あんまり大ごとだとか大変だということではなくて、なれてい…たんですけれども、それで(法案担当の)渡辺君(豊樹参事官)は…全然法律改正を手がけたことはないと言うんですよ。『そうか、よし、それではおれが一つ君を男にしてやる』というようなことを…(言い)ましてね」。「(渡辺君は)非常に自信なげなような、…不安がっておりました」と述べている。

 「私は補佐のとき…免許制の(証取法65年)改正をやらしていただいた…んで、…(渡辺)参事官(が)…遊びに来られて…、『改正を局長がやれとおっしゃっているんだけれども』といって、国会の根回しだの何かは一体どういうふうにするのか…お酒飲みながらずいぶんそればかり聞いておられました」(水野10))。

 「(証券局は法)改正は何年かに一遍ですからね」。「銀行法だって…50年に一遍とか」(水野)。

 結局、「この法律は、…自慢めいて申すわけではございませんけれども、非常に短期間で国会を通しました。(昭和)46年(1971年)の2月2日に衆議院の大蔵委員会に提出しまして、同月24日の参議院の本会議で可決、…国会を通ってしまった」。「普通は、予算委員会が…3月の初めまでに予算案を衆議院で通して、…大蔵委員会は…大抵2月中は開店休業ですからね、大蔵大臣が予算委員会にとられている(ので)11)」。

 「2月に出して2月に通ったということは…前代未聞じゃございませんか。しかも実質審議しないわけでもない12)」(水野)。

 「その当時、…(与党は)予算委員会が通ってからではなく、予算委員会をやってる間に大蔵委員会で何か実のある法律をやりたいということでした」。「竹下さん13)がなぜ、あのとき早くと…いうことだったかは分かりません」。

 「そこで、以後この法案提出について…まず与党に対して猛烈に働きかけまして、…私と田辺総務課長が、毎日のように、実はこれこれの重要な法案であるがぜひ早目に通してほしいということを強力に根回しいたしまし」た。「その結果、…提出した月の24日にはもう法律ができ…たのであります」。

⑵ 山一証券告発事件と安定操作規制の改正

 1970年5月、松下電器が時価発行増資を行おうとしたところ、公募期間中に株価が公募価格を下回るという事態が発生した。

 「当時、松下電器産業の主幹事をしていたのが山一証券で…やはり公募価格を割り込むことは困るということで、買い支えを実際に行った14)」。「その後、…そういう買い支えは証取法違反である、株価操作であるということで、東京地検に山一証券(及び他の3社、松下電器の社長)が告発される15)という事件が起こった」。

 「そこで、どうしたものかと考えた末、その当時までの政令を見ますと、株価安定操作ができる場合として非常に限定的に規定している」。「実は安定操作のその当時までの規定もアメリカの証取法の政令にならってやったものでありますが、その後アメリカ自体が改正している」。「事柄からすれば合理的にアメリカのように直すべきなのである、つまり、直し漏れで不備なんだということにわれわれの見解をまとめまして、…この規定は…直そうとしていたところだ」。「そういう…ことで、証券局としては山一証券のやったことは実はそんなに違法なことではない…というような感触で検察には説明をし」た。

 つまり、当時の日本の安定操作規制は、事前に安定操作の届出を求めており、その価格や期間を提出する必要があったが、アメリカでは、予め安定操作があり得る旨を開示しておけば、届出そのものは実際に安定操作を行った時で良いという形に制度改正されていた。

 結局、この事件は検察の起訴には至らなかった。「新聞記者は『告発だ』ということで張り切って待っているわけですよね。そういうわけで、とうとう押し通してしまって、検察もくどいて…」。

 証券局は、その後、急遽同年11月に証取審にこの問題を付議し、同12月に報告書を得て、翌71年に上記のような内容の政令改正を行った。

2.坂野常和局長(1971年6月~1973年6月)

 坂野常和氏(1943年入省)は、この時代の代表的な証券行政のエキスパートであり、証券関係部局を6年間かつ主要ポスト(証券局業務課長、総務課長、審議官など)を歴任して証券局長に就任した。なお、水田三喜男蔵相の秘書官も務めている。

 坂野氏は、間接金融優位を打破し直接金融を発展させるべきだという強い信念を持ち、進んで証券関係のポストを希望した16)と述べている。一方で坂野氏は、証券会社の財務体質や営業姿勢を改善しようという熱意が人一倍強く、また、歯に衣を着せぬ発言もあったことから、証券界からは「鬼の坂野」と恐れられた17)

 岳父が財界の重鎮原安三郎氏(日本化薬会長、政府税制調査会会長など)であり、坂野氏は退官後、日本化薬社長に就任した。

⑴ 株式市場の過熱と時価発行増資の盛行

 1971年8月、ニクソン・ショックが日本経済を襲った。1ドル=360円のブレトンウッズ体制は崩壊し、同年12月のスミソニアン合意で円は308円に切り上げられた(その後、73年2月に変動相場制に移行した)。円高による不況を防ぐために、金融緩和と財政出動による強烈な内需刺激策が実行された18)。それでも国内景気は回復しなかったが、他方、株価は過剰流動性により急騰した。1971年末に2,713円だった平均株価は、72年末に5,207円、73年1月には5,359円(高値)と約1年間にほぼ2倍となった。この株価騰貴に対しては、当時、地価高騰(列島改造ブーム)と並んで社会的批判が強かった。

 この間の株価騰貴の原因の一つが、時価発行増資の著増(ラッシュ)であると見られていた。その頃は、時価発行増資をすると、(何故か)その銘柄の株価は上昇し、さらに時価発行増資が行われるというサイクルが存在した。

 この時価発行増資ラッシュ対策として、「(昭和)47年(1972年)11月に時価発行公募増資に対して、いわゆる(引受証券会社の)自主ルールというもの(が)…発足した。…これは後に何遍も改訂され、…(この時は)時価発行のインターバル…程度の非常になまぬるいルールでありますが、とにかく自主ルールの一番最初」だった。

 「なお、この時価発行の株を…だれが引き受けるかと申しますと、…主として、金融機関がこれを引き受けた」。「証券会社(は)…銀行にリストを持ってきまして、今月の時価発行はこれとこれとこれですと、どこそこの銀行はこれだけもう御予約になりました、おたくはこれだけの割り当てをしたいと思います…こういう営業をやった」。「そういう営業をやらして、そして時価発行を盛んに行うというようなことを証券行政として許しておいていいのかという強い批判があった」。

 「11月の29日には、佐々木日銀総裁が、金融機関による時価発行の買い取りを自粛するようにという(異例の)要望を出し」た。

 1972年12月1日、大蔵省は、「株式市場鎮静化の総合対策」を打ち出した。その内容は、時価発行増資の制限(親引け50%以下など)、投信、信用取引、証券会社の自己売買の抑制などだった。

 株価鎮静化について、坂野局長は、「(その年の)12月の末に、…愛知大蔵大臣19)が見えまし」た(就任したの意)。「私どもとしましては、不正な取引はさせない、あるいは過剰な営業活動は抑制するというようなことについては、かなり努力してまいったわけでありますけれども、株価そのものが高いということは、そういう過剰流動性の時代でもありますし、しょうがないんじゃないかと思っておりましたこれに対して愛知大臣は真っ向から反対された」。「その理由は、いま土地が猛烈に高い。株が猛烈に高い。これは国民に非常に悪い影響を与えておる。堂々と働くまじめな国民は、そういうものを見てばからしくなる。ばからしくなる気持ちを庶民に起こさせるような…政治…はだめなんだ」。「したがって、株価は徹底的に押さえ込め、何が何でも株を高くしちゃいかぬというのが愛知大蔵大臣のお言葉であった」。「最初、相当抵抗を感じた20)わけでありますが、よくよく考えてみますと、やはりそうだなということになって、そこからまた…いろんな手段をとったわけであります」と述べている。

 「そこで、48年(1973年)の1月に、…これも大変異例なことでありますが、4社の社長を時の吉国次官が御自分で呼び出されて、そしてじかに自粛を要望する21)というようなことがあった」。「これは、…証券行政上は戦後初めてのことであったと思います」。

⑵ 協同飼料事件

 1973年2月23日、協同飼料の時価発行増資に関して相場操縦の容疑で、同社副社長と大和、日興、野村3証券22)の支店長等が逮捕される事件が起こった(協同飼料事件23))。「これは証券行政上は非常に大変のことで、…証取法125条というのは相場操縦の禁止の規定で…すが、…わが国の場合これが直接刑事事件になるというのはもちろん戦後初めて」だった。

 「行政としましては、検察庁に協力していろいろその間の資料その他の協力をした24)と同時に、…3月31日に3社の…支店の営業停止ということをやっ」た。「証券会社の行政処分というのは免許制以前は大変たくさんあった(が)、…免許制以後は…全然なかったわけでありまして、非常に画期的な事件となった」。

 「証取法125条というのは…構成要件が非常にむつかしい」。「いままでもいろいろ論議がありましたし、…検察当局でもいろいろ検討されたんだと思いますけれども、…この時期にあえてこういう発動があったということは、当時の株式市場の激動といいますか…大混乱が国民に与える影響が非常に大きいというふうに検察当局が判断したのではないかと考えられます25)」と述べている。

 協同飼料事件をきっかけに、株式市場における不透明な取引に対して社会的な批判が強まり、折からの金融引締めもあって、株式市場はようやく過熱から醒め下落基調を辿るようになった。

⑶ 公社債市場のあり方

 社債(事業債)の発行条件は、従来から、起債調整(「8行会という、興銀を中心とした8つの銀行が集まって事業債の発行について主導権を持っておった」)のプロセスの中で、国債、政保債、地方債の発行条件を参照して、画一的かつ固定的に定められてきた。

 この頃、事業債の発行条件を市場実勢に応じて、より弾力的に決めようとする動きが見られた。まず、1971年6月に、経団連(発行企業)と公社債引受協会(証券会社)は、「事業債発行市場の弾力化推進に関する申し合わせ」を行った。さらに、72年2月には、「経団連の資本対策委員会(で)、…応募者利回り26)の上下0.5%の範囲で利率とか発行価格を適時変更できる…という提案があり、公社債引受協会(と)…そういうことにした」。「これが…銀行、日銀、大蔵省(理財局)の圧力から証券界が独自の主導権を少し握ろうとした(ものと)言える」。

 「それから(同年)12月に、三菱商事27)(が)…わが国で初めて、…無担保の転換社債…これは証券界、金融界、大変な論争…だったんですけれども…発行されることにな」った。

 「以上のような状況で、…証取審において公社債市場の問題を取り上げた」。証取審は、1971年11月に諮問を受けて、特別委員会(大月高委員長)で審議を行い、73年2月に、「内外の経済、金融情勢の変化に伴う公社債市場のあり方について」を答申した。

 「なぜこの際、こういう時期に取り上げたかと…申し上げますと、1つは、…証券会社の力(が)…大きくなる」。「それから2つは、非常に大きな金融緩和がありまして、…いままでの固定的な金利観念というものから解放されていくいい時期だというふうに考えた」。

 「証券取引審議会は戦後公社債問題を…6回も論議されたにもかかわらず、全然公社債問題というのは前進しなかったのはどういうわけだということをもう1回ここで基本的に考え直そうその際、いままで公の場で論議することができなかったような問題、あるいは意識的に避けられてきた問題がここで論議され」た。

 「それは何かというと、財政金融政策と公社債市場の関係であります。…時の理財局長28)がみずから審議会の場に臨まれまして…説明されるというような場面もあった」。「この審議会では65条論(銀証分離)、…それから…4社寡占論(も)…論議された」。

 社債の発行については、「引き受けと受託というものがどういう関係にあるのか」について論議された。「興銀…はいままで受託と言いながら何とはなしに引き受け機能を自分で持っているんだというような意識があった」。「この際はっきりと…興銀は受託銀行にすぎないというようなことが明確化されて、非常に大きなショックを与えた」と述べている。

 この証取審の議論については、「公社債市場論(について)…こういう公の場を通じて関係者が共通の認識を持ったということが1つの大きな意義があった」と述べている。なお、この時議論された公社債市場の諸問題は、その後もなかなか前進せず、証取審でも以後も何度か審議・答申を行う必要があった(1977年「望ましい公社債市場の在り方」、1986年「社債発行市場の在り方について」など)。

3.高橋英明局長(1973年6月~1974年6月)

 高橋英明氏(1945年入省)の大蔵省におけるキャリアは、圧倒的に銀行局が長く(13年)、同局の主要ポスト(銀行課長、総務課長など)を歴任している。証券局長の後、銀行局長に就任した。証券関係部局の経験は無く、「ぼくは素人の証券局長だ」った。「素人だったということはある意味では強み(で)、…常識でいこうということでやっていた」と述べている。

⑴ 殖産住宅事件

 「ぼくが(証券局長の)内示を受けた日だったと思うが、家へ帰っていたら(前任局長の)坂野さんから電話がかかってきて、『えらいことが起きた…職員が引っ張られた』と言う。それで『どういうことだい』ときいたら、『殖産住宅事件というのがあるんだよ』というわけです。とにかく、初めて行く局でその前の日(6月25日)の晩に職員が逮捕されるということで、証券局長が始まった」。

 殖産住宅事件29)とは、殖産住宅の東証上場(1972年10月)に関連して、証券局の証券監査官と東証の上場部次長が収賄罪で摘発された事案である。殖産住宅が両者に対して、有価証券届出書及び上場の審査の謝礼として、同社の新規公開株を割り当て(親引け)た30)ことが、わいろに当たると見られた。新規公開株式は、上場後、公開価格に比べて確実に値上がりすると予想されたからである。

 「それから、…(6月)29日に取引所との懇談会というのがあった。…(殖産住宅事件について)『どうして、こういうことになるのか』と訊ねたら、新規上場の親引けという制度31)があるという」。「取引所にも証券局にも犠牲者が出るような制度はおかしいのじゃないかということで、その席で『親引け制度なんてやめたらどうか』と言ったら、…『4社が反対します』と言う。4社が反対するからできないなんて、そんなばかなことはあるかと言って、それでやめさせた」。

 「それともう一つ、上場した日に、御祝儀相場みたいに、…わあっと1日だけで…(高い)値がつく。…そういう上場した日に値が飛んである程度以上になったらもう取引停止にしろと…した。(確か)3割だったか」。

 以上のような「高橋証券局長の強烈な指導」(渡辺32))があり、東証は、「株式公開制度の運用方針について」(7月17日理事会決議)を決定した。証券局及び東証職員の逮捕からひと月も経たない極めて速やかな対応だった。

 その内容は、①新規公開の際の親引けの禁止33)、②上場初値の制限値幅を公開価格の30%以内とする、③証券会社の公開価格算定時の類似会社の選定への取引所の関与、などだった。

 国会では、「平林剛議員(社会党)に『おまえ、そんな新規上場の親引けや価格を制限したって、そんなものうまく守られるはずはないぞ』なんて毒づかれて、『いや、そんなことはない、わたしはやらせると言ったらやらせます』とやりあった」と述べている。

 殖産住宅事件は、IPOにからむ後のリクルート事件の先駆的事案34)だった。この時の改善策は、(スキャンダルへの迅速な対応ではあったが)市場行政としての原因除去というより、問題事象の直接的禁止に偏したものだった。そのため、同様の現象はその後も形を変えて出現することになった。いずれにせよ、株式公開に係る公開価格の設定や公開株の配分については、(リクルート事件の時を含め)その後何度も問題提起と制度改正が繰り返されることになる。

⑵ 田中総理のメモと公募プレミアム還元

 「当時、田中総理はわりと証券に関心の深い人で、吉本秘書官〔のちの証券局長、理財局長〕を通じて総理メモというのが2度ぐらい来た」。「それには、取引所の機械化を進めろというのがあった。…機械化して全国(の取引所)を1本にしてやれという」。

 また、「証券民主化というのは個人株主をふやすことだ。だから証券局長は個人株主をふやすように税法で優遇しろと言われた。税法で優遇するというのは、…当時1銘柄配当5万円までは申告不要だったがそれを10万円に引き上げろということだった」。

 1973年末に決まった74年度税制改正で、少額配当の申告不要限度額は、従来の5万円から10万円に引き上げられた。マル優の限度額引上げとのバランス及び個人の持株奨励が改正理由だった。

 それから、「総理メモに、…公募で得たプレミアムを5年以内に株主に還元せよというのがあった。…公募で得たプレミアムが会社のものである、しかもただのものであるといって、じっとしておるのはけしからぬ、これを、5年以内に株主に還元せよということだった」。

 公募プレミアムの還元問題は、1973年2月の協同飼料事件〔公募プレミアムを多く獲得せんが為の相場操縦だった〕の発覚以来、社会的要請が強まった。引受証券会社の公募増資に関する自主ルールは72年11月に始まっていた〔坂野局長口述記録参照〕が、当初は、過剰又は安易な増資を抑制するため、インターバルや親引け割合などを内容としていた〔72年11月の後、73年2月に改定〕。しかし、上記のような要請を受けて、73年5月に、引受証券会社による「時価発行増資後の利益配分についての追加申し合わせ」が行われた。そこでは、利益配分として「配当性向」が重視され(他に無償交付、増配など)、それら利益配分が十分でない場合には、十分になるまで増資は引き受けないこととされた。

 ところが、73年10月にさらに追加申合せが行われ、配当性向の公約に加えて、5年程度での公募プレミアムの還元〔「増資プレミアムが5年程度で全額資本金に組入れ35)られることを期待する」〕が盛り込まれた。これは、時価発行増資の盛行の後、株価が下落して投資家の不満が高まる中、公募プレミアムの直接的還元を重視する田中首相の意向が反映したものと見られる。

⑶ 日本熱学事件(上)

 「日本熱学という会社があって、コイン式のエアコン36)が爆発的に売れていたが、それが公募増資を何回か繰り返して、…1部に指定がえになった途端につぶれた(1974年5月会社更生法申請)」。「1部に指定がえになって2週間ぐらいで倒産ということになったものだから、結果的に取引所や証券局が世間を欺いた共犯者である」と見られた。「それで、…国会ではさんざん怒られた」。

 日本熱学は、コインクーラーを主力商品として急成長したが、放漫経営とエアコンの価格低下による一般家庭への普及、オイルショックが重なり経営破綻した。同社は、数期にわたって粉飾決算をしており、また、破綻の直前2年間に4回の公募増資を行っていたことから、粉飾による資金集め又は「食い逃げ」等として厳しい批判を浴びた。

 日本熱学事件は、同年7月以降、刑事事件として捜査が開始され、同年8月から証券局による開示検査が行われた。それらに伴う証券局の対応(虚偽記載、会計士処分、株価操作など)は、次の田辺局長の時代に行われることになる。

注釈

  1. 1) 当時、山陽特殊鋼の他にもサンウェーブ工業、日本特殊鋼(ともに1964年12月)など粉飾決算を伴う大型倒産が続発した。このため証券局は、粉飾決算の疑いのある会社を重点審査したところ相当数の粉飾決算が発見されたため、当該会社に訂正有価証券報告書及び今後は絶対に粉飾経理を行わない旨の誓約書を提出させた。さらに、加担した公認会計士16名を業務停止処分にするとともに、経団連に対して自主的に粉飾経理を改めるよう要請した。
  2. 2) この専門委員会の作業を実質的に補佐する機関として、日本証券経済研究所に証券取引法研究会が設けられた(1969年7月)。
  3. 3) 小田寛・三輪力・角政也『改正証券取引法・証券投資信託法解説』1954年P53参照。
  4. 4) 神崎克郎『証券取引法』1980年 青林書院新社 P76参照。
  5. 5) 「いささか門戸を狭くしすぎた感はあった」、「元引き受けには30億円以上の資本金が必要という免許基準も障害になった」という評価もある〔坂野常和『私と証券』P353参照〕
  6. 6) 外国証券業者の対日進出は1980年代半ばから活発化し、87年末には43社となった。これに伴って東証会員権問題(86年及び88年に第1次、第2次開放)などが発生した。
  7. 7) この時期に、証券局がTOB規制導入を行った理由については、ディスクロージャーと外証法だけでは地味な法案となってしまうので、TOB規制を法案に含めることで経済界の後押しを得て、法案の優先的な審議・成立を図ったという見方もある〔松川隆志・証券史談(証券レビュー第64巻12号)〕。
  8. 8) 経済界は、買占めをする外資の実体を明らかにする効果があること等から、最終的にはTOB規制導入に賛成した〔「座談会・証券取引法改正の問題点(下)」ジュリスト485号P83参照〕。
  9. 9) 日本の証券会社を公開買付代理人にしなければならない等外資が敵対的TOBを実施しにくい仕組みも組み込まれていた(公開買付代理人の設置義務は1990年に廃止された)。
  10. 10) 志場局長口述記録の中での水野繁官房審議官(口述実施時)の発言。
  11. 11) 当時も現在も、金融証券関係の法案は、(予算非関連法案として)3月半ばに国会に提出し、4月、5月に衆参の大蔵委員会(現在は財務金融委員会及び財政金融委員会)で審議し、国会の会期末近くで成立するというのが通例である。
  12. 12) 証券2法は、衆議院の大蔵委員会で3日、参議院で2日審議されている(それぞれ参考人招致を含む)。なお、審議に福田蔵相が出席・答弁したのは僅かで、大部分は中川一郎政務次官のみ出席している。
  13. 13) 竹下登元首相。当時は、自民党・全国組織委員会副委員長、国会・議院運営委員会委員。
  14. 14) 昭和財政史では、「山一証券は証券局と相談のうえで買支えに出た」と記述されている〔昭和27年度~48年度版P669参照〕。
  15. 15) 告発したのは、山一証券で株式部長などを歴任した町田恒男氏。株式市場関係の著書が多数あり、一部では日本版ラルフ・ネーダー(米国企業を多数告発した消費者運動家)と呼ばれた。
  16. 16) 坂野氏の回顧録『私と証券』(2004年)では、秘書官を退任する際、水田大臣から配属の希望を聞かれ、「証券の仕事」と答えたところ、大臣から「主計局か主税局の方が良いのではないか」と言われたが、希望を変えなかった、と述べている。なお、『私と証券』は、非売品であるが関係者に幅広く配布され、小林和子による書評(証券経済研究第48号)もある。
  17. 17) 『私と証券』の編集に関わった五十畑隆氏(産経新聞客員論説委員)は、「坂野氏は真底から証券市場、証券界を愛していた。と同時に証券界は、総じて親の心子知らずだった」と評している。
  18. 18) 当時の福田蔵相及び佐々木日銀総裁は、この時の円切上げが1930年の金解禁(旧平価の採用により大幅な円高となり、経済・社会の不安を招いて最終的に戦争に繋がった)の再来となることを恐れていた。
  19. 19) 愛知揆一氏。大蔵官僚(元銀行局長)から政治家に転じた。当時屈指の政策マンで、「物価安定と均衡ある経済発展」を理念とした。通産相、官房長官、法相、文相、外相を歴任して蔵相に就任した。為替変動制への移行、オイルショックへの対応等の激務に当り、在職中に風邪をこじらせ急死した。福田赳夫氏は「愛知君は病死ではない、悶死だ」と評した。
  20. 20) 坂野局長が「株価は市場原理で決まる」と説明したところ、愛知大臣の不興を買った〔『私と証券』〕。
  21. 21) その内容は、大証券の法人活動の自粛、信用取引を過度に行うことの自粛、自己売買の自粛、インサイダー・トレードの自粛、中低位株、無配株を積極的に勧めることの自粛だった。
  22. 22) 本口述記録では、「野村、山一、日興」の3社とされているが、「大和、日興、野村」の誤り。『昭和財政史―昭和27~48年度』(P670)にも同様の誤りがある。
  23. 23) 協同飼料の株価は、増資発表後値決めまでに約50%急伸し、出来高も平時の10倍以上となる異常な相場が現出した。
  24. 24) 時価発行増資する銘柄の株価が上昇するのは人為的な株価操作に違いないと睨んでいた坂野局長が、その摘発について検察庁に相談し、証券検査で把握した疑わしい案件の資料を提供したところ、検察が選んだのが協同飼料の件だった。なお、本件の担当検事は水原敏博氏(のち証券監視委員会・初代委員長)だった〔『私と証券』〕。
  25. 25) 協同飼料事件の裁判は、相場操縦の構成要件(特に誘因目的)を巡って長引き、最終的に決着したのは約20年後(1994年7月20日最高裁決定)であった。なお、この最高裁決定は、相場操縦罪の解釈に関する極めて重要な判例となった。
  26. 26) 当時は、「金利体系」と呼ばれる債券発行条件の暗黙のルールがあり、事業債(AA格)の応募者利回りは〇.〇〇〇%という風に画一的に定められていた。
  27. 27) 従来の有担保原則の下では、物的担保に乏しい商社は社債発行において不利であり、無担保債発行の要望が強かった。
  28. 28) 橋口理財局長。国債は低コストで発行される必要があると力説した模様である。証取審の審議状況を大月委員長が記者会見すると、橋口理財局長が反論の記者懇談を行った〔志場局長口述記録〕。
  29. 29) 同事件は、元々同社の東郷民安会長の脱税事案(多額の株式取引を多数の借名口座によって行うことにより所得を隠蔽した)であったが、その捜査の過程で証券局・東証職員等への親引けが発覚した。東郷会長は、中曽根康弘通産相(当時)の「刎頚の友」であり、政治資金を提供していたことから、同事件は社会的な注目を集めた。
  30. 30) この割当ては、二人の方で要求したもの(証券監査官は、1万株で1200万円余りの利益を上げた。東証次長は5千株)。二人は、他社からも新規公開株の割当てを受けており、半ば慣行化していた。殖産住宅は、他にも千~二千株単位で政界等に幅広く公開株を配っていた。
  31. 31) 当時は、株式の新規公開と並行して発行会社が直接割り当てる増資(旧親引け)が行われていた。
  32. 32) 高橋局長口述記録の中での渡辺豊樹氏(当時総務課長)の発言。
  33. 33) これにより、新規公開株とは別枠の親引けは解消した。ただし、公募株のうち発行会社の指図により証券会社が割り当てる行為(現在の親引け)は、その後も一部で行われた。
  34. 34) 殖産住宅事件の裁判において、新規公開株は上場後、値上がりが確実に見込まれることから、その割当てはわいろに当たると認定された。後年、リクルート事件の発覚の直後に、この裁判の最高裁決定(1988年7月18日)があり、その論旨が同事件の展開に大きな影響を与えたと言われている。
  35. 35) 当時は、株式の額面に対する配当率(1割配当が多かった)の考え方が強く、プレミアムが資本準備金から資本金に組み入れられると、通常、それに応じて配当が増加した。
  36. 36) 商標名「エアロマスター」。当時高価だった家庭用エアコンを各家庭にリースとして設置し、100円硬貨を投入すると一定時間稼働する仕組みだった。新珠美千代、輪島大士によるコマーシャルを展開した。