〔証券史録〕歴代証券局長口述記録を読む(その7 ・完)
森本 学(当研究所理事長)
1.田辺博通局長(1974年6月~1975年7月)
田辺博通氏(1947年前期入省)の大蔵省におけるキャリアは、銀行局(9年)が長く、次いで内閣法制局(5年)、主計局(4年)であり、証券行政の経験は(財務局勤務を除いて)無かった。
田辺氏は、温厚でバランスのとれた人物だったようであり、証券局長ののち、銀行局長、国税庁長官を務めた。
⑴ 日本熱学事件(下)
日本熱学事件(東証1部に指定換えになった直後に倒産した同社は、数期にわたり粉飾しており、また、直前2年間に4回公募増資を行っていた)は、1974年5月に発生していた。同事件については、「粉飾事件ということで証券局の検査をやって、告発をして起訴された。それから、関係の公認会計士も、…処分を受けた」。
さらに、破綻直前の「5月ごろに何だかうわさがた(ち)、…(同社の)株価も怪しくなりかけた。そのときの株価の動きにどうも不審なものがあ」った。この「株価操作問題というのでは、日本熱学の会社の当事者が安定操作、証取法125条3項違反ということで起訴されましたが、…加担した疑い(のあった)…幹事証券会社(山一証券)の支店の課長…は起訴猶予になっ」た。「それでわが方は、…いわゆる健全性省令違反(作為的相場形成の売買の受託)ということで、大阪支店の業務停止処分を行った」。
そのほか、この問題では「世の中で非常にやかましかったのは、引受会社の責任はどうなるんだということ」だった。「そのとき私は…引受会社の責任というのは、…証取法上明瞭な規定というものが…ない…非常にむずかしい問題である」。しかし、「事実問題として、…当該幹事会社というものはやはり信用の失墜をしたわけであり、…それは営業上の相当大きな懲罰となっていま引受会社は受けている…というような説明をした」と述べている。
この事件を契機として、東証は、ディスクロージャーの徹底を図るため、「半期報告書も公認会計士の監査を受けること」(74年12月)、「複数の監査責任者により監査を受けること」(75年2月)を上場会社に要請した。
⑵ 「投資者本位の営業姿勢の徹底について」(田辺通達)
「当時の経済情勢(は)、狂乱物価(で)、経済政策としてはやや異例な…対策をいろいろとった」。また、「当時の風潮…は、大企業批判、企業性悪説1)…が世の中を風靡して、…企業の社会的責任論」が強まった。
「それに、私が初めて証券行政にタッチするようになってから、苦情というものが物すごく多いことに実は驚いた」。「私にじかに面会に来た人もおります。…それから、手紙が来る、あるいは自宅に電話が来る、こういうのがかなりありました」。「こんなものかなあと思って、宮下(鉄巳)業務課長に大分聞いたり…したんですけれども。それで宮下課長も、やっぱりこれはお行儀がいけないんだと。前に坂野さんが…営業姿勢を正しくしろという通達が出ているんだけども、やっぱりこの際証券会社というものは、…あの証券恐慌のときの痛手からはかなり治癒されて、…財務内容も相当よくなってきている。だけれども、営業姿勢をこの際ちゃんとしないとしておかないと、またえらい信用失墜というか、あるいは日本の資本市場の発達というためにも何かやった方がいいと」考えた。
ちょうどその頃、証券行政の課題に、株式委託手数料の引上げの問題があった。当時、株式委託手数料は、基本的に1株当たりの手数料額を決める体系だったが、戦後、株式の売買高が趨勢的に増加する中で、数次にわたり引き下げられてきていた。ところが、それまで増加してきた株式売買高は、1972年をピークに74年はほぼ半減し、他方、狂乱物価で物件費、人件費が急増したため、証券会社の収支は著しく悪化した(証券会社全体で74年9月期2)は、証券恐慌以来の営業赤字となった)。折悪しく、政府はスパイラル的物価上昇を終息させるため、公共料金引上げを厳に抑制する方針をとっていたが、証券局は何とか政府部内の了解を取り付け3)、平均29.5%の株式委託手数料の引上げを実現した(1974年12月2日実施)。
証券会社の営業姿勢の是正を求める「田辺通達」の発出について、田辺局長は、「手数料の引き上げというものと関連させなかったというとうそになる」と述べている(同通達は、手数料引上げと同じ12月2日に発出された)。「何もなしに苦しい状態のまま、いかにお行儀よくしろといっても、食えないんじゃやっぱり回転商いとか推奨大量販売とか、そういうことに走らざるを得ないかもしれない」。「だから、ちゃんとやれるようにはやってやらにゃいかぬ…というような…感じはわれわれも持っていた」と述懐している。
「そのときに私は…印象が深かったのは、私の気持ちとしては、あたりまえのことを言っている。お客の取扱管理といいますか、台帳なりカードなりをきちんと整理して、そうしてお客の資力とか希望とかにマッチした売り方をするように常に監視しなさい。…あるいは回転商いやなんかをやっているものが成績が優秀だというんで表彰されたり、…あるいは信用取引をめったやたらな人に勧めなさんなと」。「私の気持ちでは、当然やっていかなければならないと思われることを言ったまでだと思っておった」。
「しかし、業界の方はまともに受けてくれまして、協会の中に特別委員会をつくって、…協会の公正慣習規則を整備したり、あるいは会社の内規を整備し…たわけです」。「あのときの特別委員長は…小林さん(小林一郎水戸証券社長)。かなり苦労されたようでした」。
「田辺通達」は、証券会社の営業姿勢の改善について、理論面、実践面において、現代的な方法論を導入したエポックメイキングな通達だった。
まず、実践面では、日証協では通達を受けて特別委員会で検討を行い、翌年2月に「証券局長通達の趣旨を実現するための具体策要綱」を取りまとめ、各種規則の制定等を行った。中でも、「協会員の投資勧誘、顧客管理等に関する規則」(投資勧誘規則)が制定されたことは重要である。同規則は、以後、証券業界の販売勧誘ルールの中心となっていく。具体的なルールとしては、このとき、顧客カードの整備及び(信用取引の)取引開始基準などが導入された。
理論面では、同通達は、「投資者に対する投資勧誘に際しては、投資者の意向、投資経験および資力等に最も適合した投資が行われるよう十分配慮すること」を求めた。これは、まさに「適合性の原則」4)であり、このときに我が国に同原則を最初に導入した意義は大きい(1992年の証取法改正により、同原則は法定された)5)。また、適合性の原則の前提となる「Know your customer」つまり顧客を知る義務も、このとき、顧客カードという形をとりつつ導入された。
⑶ 個人株主問題-証取審による審議
1974年11月、証券局は証取審に、「株主構成の変化と資本市場のあり方について」を諮問した。この審議テーマについて、田辺局長は、「(当時)、個人株主が猛烈に比率として減少してきて、株式の法人化現象6)(が)、証券市場自体に相当影響を与え(る)…と同時に、…法人の相互持ち合い(は)、…株式会社という運営(として)、…株式市場とかそういうことを離れた基本的な問題だなという感じがした」と語っている。
「何とかこれを是正する方法はないか、これは大問題ですから、じっくり腰を落ちつけてやってもらわなきゃいかぬ」。それで、「問題を整理して…堀越さん7)(証取審会長)に相談したら、ぜひやってくれと」言われた。さらに、「堀越会長は特別委員長にそのままなるということ」だった。
この個人株主問題に関する証取審の審議は、高度成長時代の株式市場の変化を根本的に問い直す証券局の強い問題意識に基づくもので、相当な労力が投入された。約1年半の審議期間に、特別委員会は21回開催され、4回の(総会への)中間報告を経て、76年5月(岩瀬局長時代8))に最終報告書が提出された。
報告書は、株主構成変化の要因として、①上場企業の株主安定化工作、②額面に対する安定配当政策による配当利回りの低下、③証券会社の大法人寄りの営業、などを挙げた。そして、これに対処する方策として示されたものの中では、上場基準の浮動株比率の引上げ(75年3月実施)、プレミアム還元の強化(74年9月、引受証券会社申合せ)及び公募増資の際の親引け比率の引下げ(75年4月、同申合せ)などが実施された。
しかし、証取審が報告書において期待した、株式持合いへの法的規制はその後商法改正9)が実現したものの余り効果は無く、配当への二重課税の排除については税当局を動かすに至らなかった。また、より本質的な、上場企業の安定株主作りや額面に対する配当率主義を改めさせることは出来なかった(その後も、個人株主比率及び配当利回りは低下を続けた10))。総じて、証券局と証取審の熱意にもかかわらず、株式市場の構造改革を阻む壁は厚かったと言うことが出来よう。
2.岩瀬義郎局長(1975年7月~1976年6月)
岩瀬義郎氏(1947年後期入省)の大蔵省におけるキャリアは、理財局(7年)が一番長く、官房(6年)、為替局(6年)も比較的長かった。証券行政の経験は無かったが、銀行局審議官(2年)のほか理財局、為替局といった金融関連部局のポストを歴任していた。証券局長の後に、理財局長に就任している。
岩瀬氏の仕事に対する姿勢は、「手を抜くことを嫌い、万事あるべき姿を追求し、それに備えて準備を周到に積み重ねる」11)というものだった。政策的には、金融の自由化や市場原理の導入に積極的だった。理財局長時代には、国債の流動化への方針転換を行った。
⑴ 三局指導のはじまり
邦銀の海外現法の証券引受業務については、「49年(1974年)4月銀行局から証券局とも相談の上銀行局通達が出ていた」。この銀行局通達は、同年に、富士銀行の50%合弁会社(富士クラインオート・ベンソン)が、従来の「邦銀海外現法は日本企業の起債の引受幹事にならない」という行政指導を抜け駆けして、キャノンのユーロ債の引受団に参加したことを契機として発出された。
「丁度その通達が出た時点では、私は銀行局担当の官房審議官でしたので、その通達の主旨は、よくわきまえていた」。「その通達の内容の骨子は、海外での過当競争と不ざまなルール違反がないように、まず邦銀の海外現地法人は開設後、そのスタッフの充実や十分な現地経験を積む必要があるので、現地でのその現法の定着度を見たうえで、証券引受業に関しては、あらためてその活動を認めるというものであった」。「従って、現地で外債の幹事引受業務(を行うには)、…開設以来少なくとも3年以上の経過が必要と見られていた12)」。
「ところが、…日本興業銀行の海外現地法人IBJインターナショナルが開店(50年6月)し、そこが、新日鉄のユーロ・ダラーの発行を…自らメーン(幹事会社)になってやりたい」と言ってきた。
「従来の通達の解釈からすれば、…当然ノーであった。然し興銀はロンドンにすでに銀行の支店開設をして…10年以上の経験があり、スタッフも実力十分であ(り)、…発行者の新日鉄もそれを希望しているので、例外として認めてはどうかという問題である13)」。
「私は、その時、この問題には多くの…論点があると考えた」。まず、「自国の企業の発行する外債で、…その発行にかかるうま味を全部といってよい程、外国側に持って行かれるのは、いかにも残念である」。「それには、日本の証券会社や銀行の海外法人が、…外国の一流のアンダーライターと堂々と立ち打ちできるようにすることが先決である14)。しかるに、実情は…本当に実力を備えたものは、数少ない」。
「第2点は、やはり証取法65条の関連である」。「海外での債券発行とはいえ、日本国内における企業とそのメインバンクとの関係が極めて強く働いている」。「当該発行に関係する殆んどすべての準備、お膳立ては、その企業と銀行とにより『本邦内』で実質的に行うことも可能である。…それは明らかに65条問題といわれても致し方ない」。
それらを踏まえて、岩瀬局長は、「要は、日本の企業等が発行する外債は少なくとも海外の日本人の手でやらせるべきだし、そのような力をつけさせるようにすべきではないのか」。「私は、…日本の企業の外債発行には、日本の証券会社と銀行とを相協力させながら、その実績造りをさせるべきであり、而も、…企業と銀行との関係に証券会社を加えることにより、(牽制を働かせて)海外での65条問題を解決させることにした」と述べている。
この様な考え方に沿って、大蔵省の銀行、証券、国際金融の三局は合意し、1975年8月に新たな銀行局通達(いわゆる「三局指導」)が発出された。その内容は概ね、①日本企業の外債の引受けに際しては、証取法65条に違反しないよう留意すること、②その趣旨を徹底するため、…墓石公告の社名配列等に十分配慮すること、であった。
この方針により、新日鉄の起債は、野村証券が上席副幹事となり、IBJインターは次席副幹事として参加した(主幹事は、モルガン&シー社)。
この通達の評判は、「当時としては、何か銀行の味方をする証券局長が登場して、証券界は大変悲しんでおるとか怒っておるとかいう話だった」。「興銀はついに勝って、証券が負けたとか、海外における証取法65条の解釈を新しい証券局長は銀行に有利に解釈した。あれは前銀行局審議官だったから銀行局の廻し者であるとか」言われた。岩瀬局長は、「この通達は、私は、4~5年先には改められるべきだと当時思っていました」と述懐している。
総じて、「三局指導」は、当時においては良く考えられた解決策であったものと思われる。元々邦銀の海外現法には当分引受業務は認めない方針だったところ、オイルショック後の日本の外貨危機の最中にあって、本件起債が産油国からの資金還流という国策に沿ったものであったため、渋々邦銀現法の引受参加を認める際の条件が「三局指導」だった。しかし、この「指導」は、岩瀬局長の予期に反して、また、導入時の意図とは離れて、その後約20年間にわたり銀証の厳しい対立の争点となった(三局指導が撤廃されたのは1993年である)。それは、「墓石公告の順序」という一見箸の上げ下ろしの指導の様な外観を呈しつつ、「銀行の影響力による証券業務」や「国内社債市場の空洞化」といった根深い論点に関わる問題だったからである。
⑵ 国債の個人消化
「当時、国債の市中消化分の1割分は証券会社を通じて個人消化、…9割分は銀行引き受けという形をとった」。「ところが、この個人消化というものは(国債の)発行量が急速にふくらんで、いわゆる大量発行時代になってもその1割相当分の消化が続けられるかという」問題になった。
その頃、国債は大部分がシ団引受により発行されており、証券会社の引受分(原則10%であるが売行きによって上下した)のみが市中消化されていた(残り(約90%)の銀行等引受分は固定比率でそれぞれが買取り保有した)。証券会社は、引受分を事業法人や農林系統等にも販売したが、9割方は個人消化していた。
「大量発行前の国債の個人消化15)は1割を越え15%ぐらい年平均で消化されておった」。「けれども、49年(1974年)ぐらいから50年(75年)にかけましては、(個人)消化の量自体は相当増えてはいましたが、増大する発行量から比較するものですから急速にその割合は下がり7%ぐらいまで個人消化比率が落ちた」。「証券引き受け分イコール…国債の市場消化(と)…シンボリカルなものとして受け取られていたものですから、それが6~7%ぐらいまで落ちてしまうと…インフレ論と…結びついてしまうというようなおそれがあって、何とかして個人消化をもう少し増やせられないかという点が頭の痛い問題となっ」た。
「ところが環境は逆で、…発行条件からして御用金的な扱い16)を受けておる(実勢に比べて低い)ものですから、投資家が買った直後に売るともう損が出るというような状態で、個人に対してなかなかはめにくい状況であった」。
「そのとき、シ団の中で銀行と証券の間で相当の論争が」あった。「銀行側は証券会社は国債消化に対して努力をしてない、シェアはどんどん落ちていると…盛んに非難するわけです」。「証券会社から見るとくやしくてしようがない」。「当時は、銀行の分は引き受けても1年たつと大半はオペの対象になって銀行から日本銀行に入っちゃいますから、ある程度ふえても…資金的には余裕が」あった。
「毎月の証券局の会議では、月180~190億円を220~230億円に目標17)を上げて大丈夫だろうかというようなことを心配しているという状況だった」。「(その)くらい証券が一時国債を売りあぐんだ」。
それから、「証券会社消化のシェアが下がった(ので)、…銀行側から、証券会社に任せてはおれません、…ついてはわれわれが売りますからやらせてください、ちゃんと法律にもできるようになっています18)、とかなり執拗な攻撃があった」。「当時、私どもはそれはだめだということで、それだからこそまた証券会社に対しては、…もう少しがんばらんといかんといってきました」。「だからこそ証券界もハッスルしたという…わけです」。
「そこで、証券業界の方々が非常に努力したのは、…国債の非課税枠の活用ですね。個人が国債を持つ場合300万円までは別枠で非課税であるため、…非常に有利であるということをセールス・ポイントにして、新しい国債個人消化策をたてて大いに努力したわけです」。「明くる51年(1976年)、…あの1年は急速に証券会社による個人消化というのが伸びた年だと思います」。
証券会社による国債消化は、1974年度の1,780億円(シェア10%)から、75年度は3,057億円(6.8%)とシェアは低下したが、その後、76年は9,529億円(15.8%)、77年度は2兆660億円(24.1%)と飛躍的に増大した。その要因は、国債発行条件の相対的改善、証券会社の販売努力、特別マル優制度の定着にあったと総括19)されている。
⑶ 現先取引の認知
岩瀬局長は、「非常に私として印象に残っており、…これはやっておってよかったかなと思いますことには、現先市場の整備がございます」と述べている。「現先市場というのが頭を出してきたのは46年(1971年)ぐらいからで、どちらかというと、自然のままの姿で放置されておった」。「逆に言えば…日本の中における唯一の自由な短期金融マーケット(で)、そこで形成される金利は(日銀が管理するコール市場等に比べ)実勢に近い」。
現先取引は、戦後早くから、証券会社の(債券の募残、打ち返し玉等の)資金繰りをつけるため、自然発生的に行われていた。その後、1960年代後半から、事業法人等の資金調達手段(委託現先)として市場は成長し、70年代に入ると、過剰流動性による運用ニーズの高まりもあって、コール市場に匹敵する規模に達していた。
「ところが、逆に現先市場の一つの弊害は、早い話が取扱うものは、…買い戻し条件つきのものですから、…極端な話が債券でなくても、物であってもいい…という話にな」る。「それから、…企業の粉飾決算とか、そういうものに使われる恐れがある」。「いままで少し野放図になったものについては、要するにお行儀を直す。しかしあまり深く介在すると自然の市場メカニズムというものが損なわれる。日本において自然発生的に生まれた現先市場を、うまく健全に育てていくのにどうしたらいいか」、「必要最小限度の規制を加えながら認知していくというのが、最善ではないかということで、若干その整備を図った」。
証券局長通達「債券の条件付売買の取扱いについて」は、1976年3月10日に発出された。通達の目的は、市場の公正性維持と証券会社の健全性確保だった。そのため、①売買対象は通常の債券に限り、②約定価格は市場実勢に拠る20)、③証券会社の取引相手(主に委託現先の与信先)は、上場会社又はそれに準じる会社に限り、④証券会社の現先取引に残高規制をかける、ものとされた。
この措置については、「日本銀行からそのときには反対を受けました。…公式に認知することになってまずいと言うわけですね。しかし、日本銀行に対しては、このまま放置することは却ってまずいと、いわば弊害の面を…強調いたしました」。「やっぱりボリュームが大きくなってくるだけでなくて弊害も多くなってくる」と説得した。
この証券局長通達は、「現先取引を公式に認知するとともに、取引ルールを改善統一し、その意義には大きなものがあった」と評価21)されている。現先取引は、その後、1977年の国債流動化以降(証券会社の自己現先が増加して)さらに拡大し、コール市場をしのぐ短期オープン・マーケットとして成長を遂げることになる。
3.安井誠局長(1976年6月~1977年6月)
安井誠氏(1948年前期入省)の大蔵省におけるキャリアは、圧倒的に税務畑(主税局・国税庁・国税局計16年)が長かった。証券行政は、企業財務課長を1965年から3年間務めており、証券恐慌後の対応に当たった。証券局長就任の前には、銀行局保険部長(2年)、日銀審議委員を務めている。
安井氏の人となりは、スマートな理論派であり、割り切った考え方と発言の持ち主だった。企業財務課長のときは、(証券局内で反対論もあった)時価発行増資を推進した。証券監督については、「投資家保護さえできれば、余り商売のことには役所が口を出すのはどうかなという感じを持っていた」と述べている(店舗行政等で規制緩和を進めた)。
⑴ 証取審「基本問題委員会」-理論と実行
証取審に基本問題委員会を設置したことについて、安井局長は、「(私が)証券局に参りまして、…(局内の)みんなで集まってよく議論をし、問題点を取り上げて、それ(で)…最初に議論になりましたのが、公社債と株式市場について、…高度成長期から安定成長期に移るわけでありますから、そのときにどういうあり方が一番望ましいのかということを、われわれの行政の指針を作るという意味から議論してもらえるとありがたいということになった」と述べている。
そして、「学者を中心にこういう新しい問題を取り上げてもらったらどうだろうかと考えた」。「ただ、そのときに、その委員会で出た結論について、…『おまえらはそれを一つも実行せぬではないか』と言われると非常に困るわけで、『どういう形で実行していくかということは行政当局に任せてほしい。…そのかわり学者の御議論で(自由に)まとめていただいて結構です』ということでお願いをしようということになった」。
「最初に、小宮隆太郎さんに…御相談し(たところ)、小宮さんは、『学者というのは理論的な整合性が大事なんで、どう実施するかということはまさに行政官の仕事であって、それに関心のあるやつは学者をやめて役人になればいい』と、えらく割り切ってくださいました」。そこで、「7人の学者を小宮さんと御相談して決めまして、委員長は、館先生にお願いしたわけであります」。
証取審は、「基本問題委員会」を1976年11月に設置した。委員は、館、小宮のほか飯田経夫、竹内昭夫、西川俊作、藤野正三郎、蝋山昌一という錚々たる顔ぶれ22)だった。
証券局の問題意識は、「まず公社債問題(について)、…当時は社債の発行が金額的に制限されているとか、…起債調整が行われている、…無担保債がないとか、発行条件が弾力化していなくて、…社債に対するレイティングがない、…というように、非常に外国に比べると違った状況があるわけで、それが日本特有の事情で…やむを得ないのか、あるいはこれから…変えていかなきゃいけないものなのか、その辺りの御議論を是非お願いしたいという」ものだった。
基本問題委員会は、76年11月から77年9月までに15回開催された。そのうち、第14回は、報告書の骨格を決めるため集中審議が行われ、「たしか箱根かどこかに山ごもりをして議論してもら」った。集中審議は4日間にわたって行われ、「小宮さんと館さんとの2人だけの議論でまる1日つぶしたこともあった」。さらに起草委員会が数次にわたって開かれ、77年10月、「望ましい公社債市場の在り方に関する報告書」が証取審総会に提出された。
基本問題委員会は、「7人の委員が学者だけで構成されたことが大きな特色」で、その報告書は、「大胆かつ率直な提言として各方面に大きな反響を呼んだ」とされる23)。報告書の主な内容は、①国債の発行は基本的に公募入札制を指向すべし、②国債、社債の発行条件の弾力化、③起債会は廃止すべし、④国債、社債の種類の多様化、⑤無担保社債の発行、⑥格付機関の導入、などであった。
基本問題委員会の報告書は、大変な力作であり、この時期に、旧来の統制的金融慣行からの脱却の筋道を理論的に示した意義は大きい。
一方、その実行状況を見ると、国債関係は、大量発行という環境下、3年国債の公募入札発行(78年6月)、発行条件の弾力化、種類の多様化などが相当進んだ24)。しかし、社債市場については、報告書の狙いである市場原理の導入はなかなか進まず、そのため、1980年代から90年代前半にかけて「国内社債市場の空洞化」の時代を迎える。その最終的解決となる社債制度改革は、銀行の子会社方式による証券業務参入(金融制度改革〔1993年〕)と「引き換えに」25)、10数年後にやっと実現したのだった。
⑵ 地方取引所問題
「実は谷村(東証)理事長が、(私が)証券局長の内示を受け(た後)…来られまして、…そのときに一番先に言われたのが、『おまえさん、まさか地方証券取引所の問題は逃げないだろうな』ということでした」。
当時は、「全部で取引所が8つあり、…福岡、広島、京都、札幌、新潟、つまり、東京、大阪、名古屋を除いた…5つの取引所のシェア(は)、…昭和30年(1955年)に6.8%、…40年(1965年)には3.2%、…50年(1975年)には1.1%…になってい」た。
「5取引所の…収入は…証券業者から集めている会費と…上場会社から集めている上場賦課金のうち、その取引所を通さないで東京取引所で売買が成立している、いわゆる『場外手数料』と重複上場…賦課金の合計が…85%を占めているわけで」す。「その…状態というのは、どうも地方証券取引所のあるべき姿から見ておかしいんではないか」と考えた。
「貝塚さん(審議官)に地方の取引所を…見てもらったんで…すが、…たしか広島だったと思いますが、…げきたく売買で…場立ちの取引所の職員が…(証券会社の場立ちが)だれもいないですから…『できもう』(「できもうさず」の略)と言うんだそうです」。「10銘柄とか15銘柄の特定銘柄を毎日そういうことを繰り返しておりまして、その取引所の職員自身が、女房子供にこんなばかげたことをやっているのを見せたくないという話」でした。「地方取引所問題というのはやはり相当深刻に取り上げないと、必ず世の中の批判を受けるなという感じを持った」と述べている。
ただし、「神戸証券取引所26)を一つ廃止するのに関係者が大変な苦労をされたために、地方の取引所の問題はタブーみたいになっていた」。「取引所の労働組合というのが非常に強い組合であります。東京の証券取引所もそう27)でありましたけれども、地方になりますと自分たちの職場の改廃の問題だけに、反対も相当に強い。神戸の取引所の廃止のときには、神戸の財務部まで来て座り込んだり、会員である証券会社の店頭にまで座り込んだりした」。
そこで、「51年(1976年)の…取引所の監理官会議(で)、…地元の経済界とも相談して、一体、地方取引所というものをどうしたらいいのか…検討してほしいと…お願いをしました」。また、「(証券業)協会にも、…取引所の会員である証券会社の立場から検討してほしいと…お願い…しました」。さらに、「谷村さんの主宰28)で全国証券取引所理事長会議というのもできて、そこで御議論を始めていただいた」。
しかし、私は「証券局長を1年でやめたものでありますから、やめた後に谷村さんに怒られまして、『火だけつけておいて逃げ出すとは何だ』ということを言われました」。それで、「日本経済新聞の…鈴木隆さんとも相談して、朝日、毎日、読売の新聞記者さん、商法の前田庸教授、経済学の蝋山昌一、西川健作の両教授をメンバーとし、坂野元証券局長に座長になってもらい、53年(1978年)の1月に証券研究会というものを作り、地方証券取引所の問題を…検討をし、その年の12月に『全国証券取引所を作れ』という報告書をまとめた」。
この報告書は、「坂野レポート」と呼ばれ、地方取引所は価格形成機能を事実上喪失しており、それを維持するのは非効率だとして、証券取引所の全国一本化構想29)を提唱した。坂野レポートは、私的な研究会の報告書ではあったが、地方取引所関係者に大きな衝撃を与えた。ただし、この時点での各取引所の対応は、単独上場銘柄の発掘や取引増強策の取組みなどに留まった。結局、広島、新潟、京都の各取引所30)は、2000年から2001年になって、東証及び大証に統合された。
⑶ 社債発行限度額暫定措置法と附則第4項問題
日本の商法には社債発行限度額の規定31)(第297条)があり、社債は「資本金及び準備金の総額」又は「純資産額」のいずれか少ない額を超えて発行できないこととされていた。電力会社とガス会社は、既に特例法によって商法のそれぞれ4倍、2倍まで限度額が拡大されていた。
一般事業会社についても、「51年(1976年)9月末の状況で、その限度の7割以上を使ってしまっている会社が82社(社債発行会社の35%)ございまして、…もう限度にきそうだということから、その枠を広げて社債を発行しやすくしようではないかという」ことになった。
この問題については、証券局内に「消極論と積極論の2つがあった」。「消極論の理由は…一つは、…297条という条文が…間接的に、いわゆる自己資本もふやせということに商法の中で働く条文だということ」だった。「積極論の方としては、現に社債が出せなくなったんでは困るではないか。しかも、…間接金融の方は幾らでも借入金ができながら、直接金融である社債の方だけが抑えられてしまうのもおかしいではないかという議論」だった。結局、「証券局としては、…積極論でいくことになり、…法制審議会で賛成意見を表明」した。
法制審の検討では、社債発行限度そのものを廃止することは時期尚早とされ、「暫定措置法」を制定して、担保付社債、転換社債、外債について、商法限度の2倍に拡大する立法措置がとられた32)。
「そのときに、これは大橋(宗夫)君(資本市場課長)がやったのですが、せっかくこの改正をするんだから、少しディスクロージャーの面で1歩進めようではないかということ」があった。それは、「当時、昭和46年(1971年)の証取法の一部改正法の附則第4項というのに、本来、社債を発行するときには有価証券届出書の提出が必要なんでありますけれども、担保つき社債については当分の間これを適用せずという規定が入っていた」。
社債のディスクロージャーについては、1948年の証取法制定時には、当然、届出書の提出義務があったが、53年の大改正(「占領法規の行過ぎ是正」)の際、担保付社債の提出義務が「当分の間」免除された33)。そして、1971年の証取法改正でディスクロージャー制度が大幅に整備された際にも、この届出免除は改正法附則第4項によって継続されていた。
「前から元証券局長であります坂野さんが、この附則第4項はどうも証券局の失敗だったということをしきりに言っておられた」。そこで、「少なくとも限度を超えて発行する社債についてははずして、ちゃんとディスクロージャーのルールにのせようじゃないかということ」になった。
「彼(大橋課長)が根回しをしましたら、やはり産業界というのは、社債を枠を超えて発行できる方がはるかにプラスなものでありますから、そのぐらいの負担ならと…のんでくれました」。
この附則第4項を一部適用除外にした措置は、実質的に公募社債を初めてディスクロージャーの対象にしたもので大きな意義を持った。この社債の届出免除制度は、1988年の発行登録制度の導入(社債の開示負担を軽減した意味がある)を機に、最終的に廃止された。
4.渡辺豊樹局長(1978年5月~1979年7月)
渡辺豊樹氏(1950年入省)は、通算14年にわたり証券行政に携わり、証券に関する問題を知り尽くした専門家だった。証券局の主要ポスト(業務課長、総務課長、審議官)を歴任しただけでなく、課長補佐も6年間務めるなど現場経験も豊富だった。
渡辺氏の人となりは、まじめで人当りが良く、行政手法は、バランス重視で手堅かった。
この時期は、財政状況がことのほか厳しく、国債発行が急増する一方、税収は低迷したことから、後述のように、「国債の窓販」と「キャピタル・ゲイン課税」の2つの問題が浮上した。渡辺局長は、「(この)2つのテーマは、証券業界としては、1番嫌な話…だったわけで…業界としては非常に抵抗していた…その問題が一度に二つ飛び出したということは、担当している証券局長としては非常につらかった」と述懐している。
⑴ 国債窓販問題と「谷村メモ」
「私が証券局長から…(辞め)たときに、ある人に『窓販をおまえがつぶしたといろいろな人に言われているぞ』と言われました。果たしてそうなのか」と渡辺局長は語り始める。
「52年(1977年)11月に…都銀懇から銀行局に対し、国債の窓口販売に関する要望というのが出されまして、これを契機に現実の問題として大議論が行われることになった」。
「私(当時は証券局審議官)は、この問題は行政当局で議論していくべきである。…審議会で議論する問題ではないのではないか。…私と佐藤(徹)総務課長は証取審で議論しない方がいいと主張していました」。
しかし、この窓販問題を証取審に諮ることについては経緯があった。前年(76年)末に発行が(やっと)決まった中期(5年)割引国債については、銀行界は預金や金融債と競合するとして相当強く反対した。「そのときに、…銀行が中期割引国債を窓口で売れるということであるならば、これをのんでもいいじゃないかという議論があ」った。「結果的には、…証券会社が売るということでスタートしましたが、そのときの…合意事項と(して)『中期割引国債の骨格』というペーパーが(あり)、『金融機関の窓口における販売の実施について検討するとともに、証券取引審議会にも諮る』という表現が」あった。
その後、金融制度調査会で窓販問題の審議をスケジュールにのせ、証券局も「割引国債のときに、証券取引審議会にも諮るとなっているから証取審で議論せざるを得ないことにな」った。それで、「佐藤総務課長と一緒に、どのように証取審を運営していくかということを考えました。総会で議論するとなると大げさだし、そうかといって特別な部会を設けるというわけにもいかない。そこで、前代未聞の例なんですけれども…総会のメンバーで懇談会ということで議論していこうということに」した34)。
「その証取審の議論の最中に、谷村先輩から、銀行が国債を取り扱うことについての法律上の問題提起があったわけ」です。それは「谷村メモ」と呼ばれたもので、概ね、①証取法65条は、公共債について金融機関の証券業務禁止を解除したものに過ぎず、銀行の実施できる「業務」とする根拠にならない、②銀行法上の付随業務として実施可能であり、実際に戦前は実施していたという(銀行界の)主張については、戦前の募集業務は現在のものとは性質が違い、また、長期信用銀行法等他の法令との比較において「証券業」を「付随業務」と解釈するのは疑問である、という内容だった。「谷村メモ」は、非常に緻密な法律論35)だったので、「(これ)に対して真正面から反論した機関とか人は、私はいなかったんじゃないかなと思います」と述べている。
これで、「一番困りましたのは、銀行局でしょう。銀行局は今の銀行法のもとで国債は扱えるというスタンスをとっていました」。「証券取引審議会の会長である河野通一さんは、銀行が法律上できるという前提で議論するか、銀行はできないということで議論するかでは全然違う。…一体できるのかできないのか、それを法制局へ行って聞いてこいと言われるのです」。
しかし、「法制局はとてもそんなことを結論出せるわけではない。もっと行政の方で勉強して、大蔵省の考えをまとめてから持ってこいということにな」った。「このように、今の銀行法で読めるんだという法制局の確定的な解釈は出ない。しかし、大蔵省として省内で意見をまとめるということもできない…という状況の下で、金融機関による国債の窓口販売というのは実現できなかった」と述べている。
国債の窓販・ディーリング問題は、その後数年間にわたる銀証両業界の紛議を経てやっと決着した。そうした両業界の利害とは別に、それらの業務については、銀行法、証取法を改正して法的根拠を置く、制度的にしっかりとした解決策がとられた。「谷村メモ」は、当時の議論をそうした方向へ導く上で重要な役割を果たした。その結果、銀行は証取法上の認可を受けて証券業務を行う形となり、同一の業務には同一の(投資家保護などの)規制が掛かるという原則が確保されたのである。
⑵ キャピタル・ゲイン課税
当時、株式のキャピタル・ゲインは原則非課税だったが、政府税制調査会では、課税の公平性の点から問題とされ、累次にわたり「総合課税にすべき」という答申が出されていた。しかし、現実問題として税務当局は、株式譲渡益を捕捉する手段が無かったため、一部の事業所得類似の取引36)のみを総合課税の対象にしていた。
一方、「証券界の認識(は)、…28年(1953年)の法律改正で、当時キャピタル・ゲインについて課税していたのをやめて、そのかわり有価証券取引税が設けられたのだ」。「(だから)有価証券取引税が課税される以上はキャピタル・ゲイン課税の問題は出てこないと思っていた」。
しかし、主税局はキャピタル・ゲインへの課税強化を諦めていなかった。「(こ)の問題について、一番熱心に取り組まれたのが高木(文雄)主税局長です」。1973年12月に、高木局長は証券界首脳に対して、「キャピタル・ゲイン課税だけではなくて、…証券にかかわるいろいろな税制上の問題について…何か勉強してくれという問題提起があっ」た。さらに、「49年(1974年)3月の(高木)主税局長答弁では、…『いずれ専門家を入れた研究会を設置して、有価証券譲渡所得の適正な課税のあり方について検討したい』と」発言した。その後、76年、77年の税制改正の際、「主税局からキャピタル・ゲイン課税の問題はぶつけられています」。
「次いで、53年(1978年)度の税制改正(では)、…この年は税収の問題37)がありまして、有価証券取引税の引き上げ38)の改正をせざるを得なくな」った。「したがって、…キャピタル・ゲイン課税の話はまた消えた」。
ところが、「私が局長になりまして、54年(1979年)度の税制改正(で)、…キャピタル・ゲイン課税の話が…また飛び出して」きた。「証券界は、…昨年取引税を上げた(の)に、キャピタル・ゲイン課税の話…をまた持ち出すのはひどいじゃないかという、非常な反発があった」。
「主税局は、今度は…有価証券の大口譲渡を課税対象…に加えたいと…言ってき」た。「主税局が非常に頑張っていたのは、年間の株式数何万株というところで、…例えば50万株でどうか、50万株が無理ならば40万株でどうかと」言ってきた。「しかし、これは業界としてはなかなかのめない。そこで出てきたのが、一銘柄で年間の売買株数が20万株を課税対象にするという案39)」だった。「大倉次官(前主税局長)が、何万株というのを入れるよりも『一銘柄20万株』という方が業界を説得しやすいというならば、それでもいいじゃないかという裁定を下されまして、それを業界に持っていって了承してもらった」。
この時に主税局が、「なぜキャピタル・ゲイン課税について一歩前進を迫ったかという理由は、…当時医師課税を強化して、不公平税制を是正しなければならないという議論があり、…不公平税制の是正をとり上げると、大蔵省の監督下である証券界にキャピタル・ゲイン課税の問題があるのではないかと必ず言われる。だから、まず自分のところの軒下をきれいにするためにもキャピタル・ゲイン課税をやらなければいけないんだということだ」ったと、渡辺局長は推測している。
この問題の根源について、谷村裕氏は(この口述記録の中で)、「キャピタル・ゲインの問題が非常に不公平だ不公平だと言うけれど、果たして不公平かどうか。…主税局の人に聞くと必ず、値上がり差益というものは、あれは投機的な利益だとばっかり思っている。…そんなことはないんだ。…有価証券としては…分配という形でインカム・ゲインで渡すか、…値上がりという形で…取るか、…どっちでとったっていいわけです」と述べている。
つまり、税制関係者には、個人の株式譲渡益はあぶく銭であり、その原則非課税は不公平税制の典型であるという偏見があったため、実行困難なその課税強化が繰返し論じられるという消耗戦が展開された。
キャピタル・ゲイン課税の問題は、その後、50回を30回、20万株を12万株とする改正(87年)や源泉分離課税(売却代金の1%を徴収)の導入(88年)などの変遷を経て、2003年の申告分離課税への一本化及び特定口座制度の導入(見返りとして有取税は廃止)によって、ようやく根本的な解決が図られた。
注釈
- 1)当時、総合商社や石油会社は、買い占め、売り惜しみにより利益を貪っているとして、「諸悪の根源」と糾弾された。
- 2)当時、証券会社の営業年度は10月から翌年9月まで(9月期決算)だった。その後、1988年の証取法改正により3月期決算に変更され、さらに、2014年の法改正により決算期は自由化された。なお、1988年の改正は、インサイダー取引規制の導入と同時であり、一説によれば、株主総会の時期を他の多くの会社と合わせることにより、総会屋の出席を減らすことが目的だったと言われている〔堀口亘『新訂版最新証券取引法』1993年 商事法務研究会 P317参照〕。
- 3)田辺局長口述記録では、物価政策を担当する経済企画庁の了解をとるのに苦労したことが回顧されている。
- 4)適合性の原則は、米国の証券業者の自主規制(NASD、NYSEの規則など)として発達してきた。現在は、FINRAのルールとして整備されている。
- 5)適合性の原則は、その後、他の法律(商先法、貸金業法、信託業法)にも規定された。また、私法上も、「適合性の原則から著しく逸脱した勧誘による証券取引は不法行為に該当する」という判例が、(証取法に規定される前から)定着している(2005年7月14日最高裁判決など)。
- 6)個人持株比率は、戦後の財閥解体・証券民主化の時代には、61.3%(1950年)に達したが、その後一貫して低下し、1974年には33.5%になっていた。
- 7)堀越禎三氏(日銀に入行し日銀理事、その後東京電力常務、経団連副会長・事務総長を歴任した)は、証取審の会長を約16年(委員は23年余)務め、証取審は別名「堀越審議会」とも呼ばれた。
- 8)岩瀬局長は口述記録の中で、「東大の矢沢先生をはじめ非常に活発ないい意見を述べてくださってそれはいい審議会だった」、「橋本君(証取審担当の企画官)が心血を注いでくれ」たと述べている。
- 9)81年商法改正。子会社による親会社株式の取得禁止や議決権行使制限が導入された。
- 10)1970年に39.9%だった個人持株比率及び3.52%だった配当利回りは、1980年代には、それぞれ20%ぎりぎり、0%台まで低下した。
- 11)岩瀬義郎/岩瀬裕全『信念と運命』(2017年)による。同書は、義郎氏の遺稿と子息裕全氏による義郎氏の回顧を編集したもの(非売品)。
- 12)昭和財政史(昭和49~63年度)は、この点について「銀行系現地法人が引受幹事になることは当分認めないことを意味し…ていた」と述べている。当時、大蔵省、日銀は、邦銀の性急な海外業務拡大に警戒感を持っていた。また、74年当時は金融環境も悪く、ロンドンではジャパン・プレミアムが発生していた。同年、国際金融局は、邦銀の現地貸しに規制措置をとった。
- 13)三局が例外措置を検討した背景には、本件はもともと興銀がサウジアラビアなどと企画したものであったこと、及び、興長銀にはその業務の特殊性に鑑み、都銀より早く海外での証券業務を認めようと考えていたこと、があったものと思われる。
- 14)このあたりは、岩瀬氏は1960年代半ばに大使館参事官としてロンドンに在勤しており、シティーの金融業務を見聞していたことが反映しているものと思われる。
- 15)ここでは、証券会社による市中消化をまとめて「個人消化」と呼んでいる。
- 16)岩瀬局長は口述記録の中で、「国債は、必ずしも市場実勢どおりで無く低コストで調達しても良いのだ」という「御用金思想」が、当時の大蔵省(の財政部局)では強く、その転換が課題だったと述べている。
- 17)当時、国債(10年債)は毎月発行され、証券団は販売見込み額からその月の引受額を決めていた。この引受額に販売が達しなければ募残が生じた。この方式の結果、証券団の年間の引受分は10%を上回ることもあれば下回ることもあった(当時の国債の個人消化については、中島将隆『日本の国債管理政策』1977年 東洋経済新報社 P188以下参照)。
- 18)銀行側は、公共債の取扱いは証取法65条で例外として許容されているし、銀行法は戦前から銀行の引受・募集業務を認めているので、現行法上、国債窓販は出来ると主張していた。ただし、銀行法及び証取法には、銀行が公共債を取扱う際の規定が無かった。この点は、後の銀行国債窓販問題の時に争点となる。
- 19)『大蔵省証券局年報 昭和53年版』による。
- 20)それまで、約定価格を恣意的に設定することにより、現先取引が利益操作に用いられることも多かった。
- 21)北裏野村証券社長〔『証券百年史』1978年 日本経済新聞社〕
- 22)そのほか、公社債市場の実態を把握するため、金融界、産業界から専門委員等が参加し、実態説明等を行った。
- 23)証券局による自己評価。昭和財政史にも同様の評価がある。
- 24)米澤潤一氏は、こうした動きを「国債当局が『御用金』から金融自由化の尖兵に転じた」と表現している(米澤潤一『国債膨張の戦後史』2013年 きんざい)。
- 25)松尾順介『日本の社債市場』(1999年 東洋経済新報社)による表現〔P95参照〕。
- 26)神戸証券取引所は、単独上場が1銘柄しかなく、会員も減少して収支が償わなくなったこと等から、(証券恐慌後の)1967年に廃止された。会員証券会社や取引所職員は、最終的に大証に引き継がれた。
- 27)高橋英明局長は口述記録で、「東証の建物で理事長の部屋に行くには、鍵のかかった扉が幾つもある迷路のようなところを通らないと行けなかった。それは、労働組合の乱入を防ぐためだった。また、東証の組合が『局長に会わせろ』と言って、大蔵省の証券局長室の前の廊下までなだれ込んで来たことがあった」旨述懐している。
- 28)鶴島元東証社長は、「谷村さんは、この(地方取引所)問題を割と意欲的に考えておられたように感じました」、「竹内さんに代ると、…『この問題は強引にリードしても、うまくいく話ではない。機が熟するタイミングというものがある』という考えで、理事長会議の席では一度もこの問題を取り上げられませんでした」と証言している〔日本証券史資料・昭和続編第5巻〕
- 29)米国では1975年の証券制度改革により、ナショナル・マーケット・システムが導入された。この時期に日本で、取引所の一本化(及び機械化)が盛んに論じられたのは、多分にその影響がある。
- 30)テリトリー制の廃止、システム費用の増嵩等の地方取引所側の事情及び金融危機(1997年)の後で手数料自由化が進行していたという会員証券会社側の事情があった。
- 31)1890年の旧商法制定時からある規制で、主要国(米英独仏)にはない異例な規定であった。イタリアかベルギーの規定を参考にしたものと言われている。
- 32)社債発行限度額規制は、その存在意義が疑問視されていたにも拘らず、その後も一部限度額を拡大しながら、1993年まで存続した。銀行界が子会社方式による証券業務参入が(同年の金融制度改革で)実現するまで、限度額規制の撤廃に反対したからである。
- 33)それらの社債が、主として発行会社の企業内容を調査する能力を持つ金融機関によって取得されていること等を理由としていた(『改正証券取引法・証券投資信託法解説』1954年〕
- 34)金融制度調査会及び証取審の報告書は、共に1979年6月に提出された。銀行の公共債業務について、前者は積極論、後者は消極論のトーンが強かったが、結論については両報告書とも「行政当局において適切に検討するよう」求めた。
- 35)谷村メモの法律論に関しては、矢沢東大教授による詳細な論考がある(矢沢惇「銀行による国債売買業務の法律問題〔上・下〕」商事法務 1978年8月5・15日号、同25日号)。
- 36)1953年にキャピタル・ゲインが非課税とされた時から、「事業所得に該当するもの」は課税対象とされていた。その基準は、当初は、税務執行上、株式取引年50回以上等とされていたが、61年に、税制上、「年50回以上かつ20万株以上の継続的取引」と明確化された。
- 37)1978年度予算は、オイルショック後の「日本機関車論」などにより強力な積極財政策がとられた。一方で税収は低迷していたため、税収の年度所属区分変更のほか、「増税一本ヤリ」の税制改正が行われた。
- 38)有取税の主な税率(株式等)を0.3%から0.45%に引き上げた。
- 39)この時導入された大口取引への課税について、当時の高橋元主税局長は、「だれが何万株売ったなんてのは税務署に資料が来ないわけですから、納税者の良心に従って課税する以外の方法がなかったんです」と述懐している。また、実際に申告された件数も27件(1980年)という少数に留まった(同年の継続的取引の申告は94件)。