1. TOP
  2. 出版物・研究成果等
  3. 定期刊行物
  4. 証券レビュー
  5. 第66巻第6号(2026年6月)
第66巻第6号(2026年6月)

〔JSRI時事エッセイ 鈴懸の木の下〕海外との賃金格差から考える
日本のデフレ時代と日本経済の長期展望

佐々木 百合(明治学院大学 経済学部 教授)

アルバイトをしようと思って求人広告をみているとしよう。時給1,500円のバイトと時給3,500円のバイト、内容が同じだったらどちらを選ぶだろうか。一日5時間シフトに入るとしたら、7,500円の稼ぎか、17,500円の稼ぎかの違いである。当然高いほうを選択するだろう。これは、スターバックスのおおよその時給を東京とシアトルで比べたものである。

もちろん、シアトルで働くためには費用がかかる。家賃は今や東京よりシアトルの方が高いし、物価も明らかに高い。それでも一定期間働くのであれば、これらの費用を差し引いてもアメリカで働くほうが稼ぎは多いのではないか。もしリモートワークが可能な職種であれば、日本に住みながら働く選択肢もあるし、アメリカ以外の国も含めれば選択肢はより多くなるだろう。実際、日本国内でも外資系企業には多くの優秀な人材が集まっている。各国の平均年収を比較したOECDの統計によると、日本の年収はアメリカ、イギリス、ドイツはもとより、韓国、イタリアよりも低く、25位(2024年PPP調整)となっているのだから、当然のことといえる。

しかし、日本人は海外に流出していない。届け出ベースではあるが、3か月以上海外に滞在する日本人を示す外務省の海外在留邦人数調査統計をみると、海外に在留している日本人は人口の約1%にとどまっており、この割合は、極端に海外在留率の高い韓国などを除いてみても、主要国のなかでは低い値である。現在の日本と海外の賃金格差の拡大を考えれば、海外で働く日本人が急増していてもおかしくないと思うが、実際にはほぼ変化がないのである。

なぜ日本人は海外で働かないのだろうか。もちろん、海外で働くとなれば、ビザが必要になったり、ワーキングホリデーの規定内でしか働けないなどの制約はある。一方で、例えばUZUZホールディングスによる「海外就職に関するZ世代の意識調査」(2024年)によると、そのような制約以外にいくつかの大きな要因が見えてくる。回答として多かったのは、「日本が好きだから」「(海外の)治安が不安」という理由だ。そして「語学力に自信がない」など適応面での不安も多い。その他は、家族・友人や、地元を離れることへの抵抗感もあったという。そもそもこのアンケートに答えている人たちが、日本と海外の賃金格差についてどれくらいの情報を得たうえで回答しているのかはわからない。もしかしたら、そこまで賃金に格差があるとは想像せずに回答しているかもしれない。しかし、少なくとも、若者は賃金以外の理由で日本から動こうとしていないのである。

自国を出て働くことへの抵抗感というのは日本に特異なことではない。よく知られているのが、EU(当時はECだった)の例だ。1992年マーストリヒト条約が締結されると、EU市民権が制定され、EU加盟国はそれまでに比べてEU加盟の他国で働くことが容易になった。そのときに予想されたことは、相対的に失業率の高いEU南部のイタリア、スペイン、ギリシャなどの若者が、ドイツや北欧で働くようになることだ。しかし、実際には想像よりもはるかに労働の流動性は低かった。当時その理由として挙げられたのが、言語の障壁、文化の違い、などであり、まさに先ほどの日本のアンケートと類似した回答だった。

日本の若者が日本を好み、日本から離れたくないと考えることは時代背景を考えれば当然のことであろうし、喜ぶべきことである。しかし経済的な観点からみると、労働者の国際移動が限定的であったことは、日本企業に対する賃上げ圧力を弱めた一因になっていた可能性がある。マクロ経済学では、価格も賃金もすべて国際的に均衡していくと考える。ある国だけ賃金や物価が取り立てて低いという状況は起こらないはずだ。賃金の安いところで働いている人は、賃金の高いところに流れる。それによって、高い賃金は下がるし、安い賃金は上げなければならないからだ。そして最終的にはひとつの賃金に均衡するはずである。現実は理論通りに説明できないが、しかし、日本人が賃金の高低に関わらず日本にとどまったので、日本企業は相対的に安い賃金で日本人を雇い続けることができ、それが海外と賃金格差を開かせる一つの要因になっていたということは言えるのではないだろうか。賃金が上がらず、物価も上がらないと、名目賃金を放置しておいても実質賃金も下がりはしないため、賃上げ交渉にもつながりにくい。企業は余剰した利益については賃金に回すことなく、その一部は配当として株主に還元され、残りは内部留保として蓄積されたのではないか、という指摘もある。

この仮説が正しかったとして、もしも日本人が高い賃金を求めて日本企業から流出し続けたらどうなっていただろうか。流出を止めるために日本企業は高い賃金を払うことを余儀なくされ、企業経営は厳しくなっていったかもしれない。しかし、一方で、高い賃金に見合う高付加価値な産業への大きな流れも出てきたのではないだろうか。日本は輸送機器などモノづくりでは世界に誇るものを多く輸出しているが、一方でサービス収支をみるとデジタル赤字が大きいなど、高付加価値産業へのシフトが進んでいるとは言えない状況だ。半導体のような高付加価値の製造や、金融業・デジタル産業などといったサービス業へシフトして高い賃金を支払える経済になっていくためのプレッシャーがあってもよかったのではないか。

2022年を境に日本経済は大きく転換している。インフレ率は2-3%で推移し、金利ある世界になり、デフレの30年は終焉を迎えて、名目値を固定していれば実質値が低下していく状況になった。こうした環境変化に加え、人口減少や高齢化の進展によって人材確保は従来以上に難しくなってきている。実際、大手企業を中心にベースアップや初任給の引き上げが継続しており、企業はもはや賃金を据え置いたまま人材を確保することが難しい状況に直面している。今後さらに人手不足が深刻化するなかで、高い賃金を支払うためには生産性向上が不可欠となる。その結果として、高付加価値な製造業やデジタル産業、金融・情報サービスなどへのシフトが促される可能性があるだろう。また、AIの発展は語学面の障壁を低下させ、日本人が海外企業で働くことや、日本企業が海外市場にサービスを提供することを容易にするだろう。日本経済を長期的に展望するうえでは、人材獲得競争の激化が高付加価値産業への転換につながるのか、そして日本企業が国際的な人材・サービス市場の中でどのような競争力を築いていくのかに注目したい。

(参考文献)

  • UZUZホールディングス(2024)「海外就職に関するZ世代の意識調査」
    https://uzuz.jp/news/release_20240426