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第66巻第4号(2026年4月)

歴代証券局長口述記録を読む(その5)

森本 学(当研究所理事長)

本連載は、これまで吉本局長(第13代)から、口述記録が残っている最後の局長である日高局長(第23代)の分までを掲載した(最後の長野局長(第24代)は口述記録を残していない)。そのため今回からは、時代を遡って、初代の証券局長から渡辺豊樹局長(第12代)までを扱っていきたい。

1.松井直行局長(1964年6月~1966年5月)

松井直行氏(1940年入省)の大蔵省におけるキャリアは、国税庁関係(地方勤務を含め10年)が長く、局長就任直前は主税局財務調査官(現在の審議官)を3年間務めていた。ただし、理財局時代の証券課長(最後は証券第一課長)を4年余り務めており、証券行政の草分けの一人と言うことができる。

松井氏の人となりは、生まじめで、紳士的な性格だったようである。退官後は、大阪証券取引所の理事長を務めている。

2.加治木俊道局長(1966年5月~1967年8月)

加治木俊道氏(1941年入省)の大蔵省におけるキャリアは、銀行局(約10年)が長く、次いで関税関係(約5年)を経験している。証券行政には、1963年の理財局証券部長への着任から係っており、松井局長時代には、No2の証券局財務調査官を務め、引き続いて証券局長に就任した。この間4年間にわたって、証券行政(特に危機管理)の中心として活躍した。加治木氏の証券行政へのアプローチには、銀行行政の経験が色濃く反映しているとも言われている。

加治木氏は、東京商大卒としては初めて本省局長に就いた逸材1)と評され、決断力、行動力に富んだ人物だったように思われる。

この時期の証券行政については、両局長の口述がかなりオーバーラップしているため、一括して見て行くこととする。

⑴ 「証券局」の発足

証券行政は、明治以来、農商務省(のち商工省)の所管だったが、1941年12月(太平洋戦争開戦の直後)に大蔵省に移管された。戦後は、GHQの指導により1948年から「証券取引委員会」に移されたものの、1952年の講和発効ののち同委員会は廃止され、大蔵省理財局の所掌となった。

理財局では、当初、証券課(または証券第一課、第二課)が証券行政を担当していたが、1959年から証券担当の財務調査官(初代は谷村裕氏)が配置され、さらに62年には理財局内に「証券部」が設けられた。

このように、証券行政を担う組織体制はようやく拡充してきたが、1963年になると、株式市場の不振が明確になり、また、証券会社の経営問題も顕在化してきたことから、「証券局」を設置すべきではないか、という声が起こってきた。しかし、行政機構の再編は元来容易でなく、中でも局の新設は難事だった。

そのような中で、「証券局」が発足したのは、田中角栄蔵相の熱意と行動力に負うところが大きかった2)。田中蔵相は、63年10月に突如、「証券局を来年つくる。行管の許可はもう自分がとってきた。あとは大至急、証券局をつくる準備をしてくれ」と事務方に指示した3)

実は、当時の証券行政担当者たちは、必ずしも証券局設置に前向きではなかった。加治木証券部長は、「ぼくは本当は証券局つくるのは反対だったんです。変な、非常に弱体な局になりやしないかという気がしましてね」と述べている。下手に独立するよりも、理財局の大きな傘のなかにいる方が良い、と考えていたのである。しかし、「時の田中大蔵大臣の方は、もっとはっきりしたものであった。銀行と証券は車の両輪である。証券会社は当然に免許制にすべきである。証券部は証券局に昇格すべきである、と極めて明快であった」〔加治木メモ4)〕。

そこで、証券局発足に際して、加治木部長が重視したのは人事だった。加治木部長は、「証券局をつくるときに私が一番苦労したのはスタッフです。新局というんですから新店でしょう、各局と比べてスタッフが落ちたらもうだめだと思った」、「ですからこの人とこの人とこの人をくれっていうことを言って、大体じゃそうしようということで、これはありがたかったですね。ぼくの口から言うとおかしいけれども。(坂野)総務課長にしても、(安川)業務課長にしても、(安井)企業財務課長、これらが中心でしたがどこに出しても恥しくない、まあ満足すべき布陣でした」と述べている5)。新生証券局は、この布陣で1964年から65年の山一危機、証取法改正(免許制移行)の難局に臨むことになる。

証券局が発足するに当たっては、組織の問題で幾つか解決しなければならない点があった。その一つが、理財局経済課6)(のちの企業財務課と資本市場課に相当する課)の帰属問題である。「(昭和)37年(1962年)に証券部ができても経済課は理財局で別のあれ(証券部に属していなかった)ですから。証券局ができるときに、その経済課を証券局につけるのか、理財局がそのままとっておくのかという大論争になったんですから、驚くべき話なんです」〔松井(坂野)7)〕。

この論争は、加治木証券部長と佐竹理財局次長(のち理財局長)との間で交わされたもので、要するに、証券発行市場をどちらが所管するかという問題だった。当時の証券発行市場は、株式は概ね株主割当てであり、社債は実質的に日銀・興銀と理財局が協議・調整していて、証券会社は余り関与できていなかった。このため、理財局側は、「発行市場に関することは、従来通り理財局がやる」と主張したが、加治木部長は、「証券行政は発行・流通市場とも証券局に集中すべきである」として譲らず、結局、経済課(企業財務課に名称変更)は証券局に属することになった。

もう一つの問題が、新しい局の名前をどうするかだった。関係者は、「証券局」は業者行政だけのようで狭い感じがするとして、「資本局」や「資本市場局」などの案を考えたが、経済企画庁のようだとして通らなかった。そして最終的に、「銀行局」もあるのだから、「証券局」で良いではないかということになった8)

⑵ 免許制への移行

1963年頃になると、市況の悪化とともに、証券会社の財務体質の脆弱性や営業姿勢の問題が顕在化したため、証券取引審議会は小委員会を設けて「証券業者に関する諸問題」について検討を行った。その結果は、64年2月に中間報告としてまとめられた。同報告では、証券外務員への規制強化を求めるとともに、証券業者の免許制移行について「積極的な方向で検討を続けることが望ましい」とした。ただし、どのような形で免許制に移行するのかについては、全面免許制のほか、(規模や業務内容による)登録制と免許制の二本建てに言及するなど必ずしも煮詰まったものではなかった。

当時の証券部そして証券局内には、この免許制移行にはかなり強い反対論があった。坂野総務課長9)は、「(登録制であれば)へたった会社が出てくれば登録取り消しをすることができた10)。…免許制になれば簡単に取り消せない」、「それで、証取審の小委員会で私どもは徹底的に免許制に反対した11)」〔松井(坂野)〕と述べている。

また、「証券外務員のトラブルがしょっちゅう発生していまして、当時の証券部の仕事といったらそれに追い回されていたような感じ」〔加治木〕だった。「(免許制への移行で)正直のところ、大蔵省の責任がこれ以上加重されるようなことは、御免蒙りたいという気持ちも強かった」〔加治木メモ〕。

免許制推進派には、加治木部長、安川業務課長など銀行局出身者が多かったが、反対派には、「証券監督は、(免許制の)銀行や保険とは性質が違う」という考えもあった。しかし結局、「(登録制であっても)証券業者の不始末については、必ず大蔵省の責任が追求された」、「制度の如何に拘らず大蔵省の監督責任は事実上免れ難いということであれば、寧ろこの際責任のとれるような方向での体制整備を考えるべきではなかろうか」〔加治木メモ〕という考え方が、省内でも優位を占めるようになった。

また、この問題の帰趨にも、田中蔵相の意向は影響した。「証券局ができる直前でしょうか、田中大蔵大臣が大蔵委員会で、免許制にしますということを言い切っておった12)」〔松井〕。当時の担当者は、「あの方の発言で後へ引けなくなったという感じがある」〔加治木〕と述べている。

その後、証取審は64年秋から免許制に関する審議を再開し、同年12月に「免許制を採用することが必要である」とする報告書を提出した。そして、証券局は免許制移行を含む証取法改正法案を65年の通常国会に提出した(証取法改正の国会審議及び成立の経緯については後述)。この免許制への移行については、「証券界も免許制に異論はない。既得権が認められるのではないかという期待もあったのであろうが、非常に積極的であった」〔加治木メモ〕とされている。

しかし、既存業者の既得権は認められなかった。免許制への移行には、3年間の猶予期間があったが、その間に厳しい免許基準に適合することが求められた。「正味財産の充実、手数料収入による収支の均衡、経営陣等の人的条件の整備、これらが体質改善の主たる内容」〔加治木メモ〕だった。

大蔵省は、「免許制移行に際してのいろんな業者の…体質改善…(の問題)を全部一掃する」〔加治木〕つもりだった。特に厳しかったのが、「自己売買は、ブローカー業務の円滑な遂行又は市場機能維持のため必要な限度に限り、収支の均衡は専らブローカー等の手数料収入によって図らなければならない」〔加治木メモ〕点だった。「東証出来高一日七千万株(の時の手数料での収支均衡)の厳しい線を最後までおろさなかった」、「そして結果的には…277ですか、しぼりが十分できたと思うんですね」〔加治木〕。

登録業者は1965年3月末に511社あったが、1968年4月に免許を受けたのは277社とほぼ半減した。この間、かなりの数の合併、営業譲渡が行われたが、経営の見通しが立たず自主廃業した社も多かった。「店舗は恐らく半分以下になったと思いますね13)。それから人員は、…たしか10万あったのが6万まで減った」〔加治木〕。

証券業界は、当初、「免許制によって格が上がると申しますかね、銀行並みの格が上がるということを考えた」。「ところが、免許制移行と同時にいま出ましたような大幅な整理ですね、これがつきまとってくるという方は最初から実はあんまり予想しなかった」。「当時考えると非常にきつい基準ですから、そこへ持っていくことができたというのはやっぱり(証券恐慌を経たという)インパクトがあったからだ…と思いますね。それで証券業者も泣き泣きついてきましたから。余り文句出なかったように思います」。「証券業界全体として大蔵省に抵抗するという姿勢はなかったですね」〔加治木〕と述べている。

⑶ 証券恐慌の進行とその原因

株式市場は、1958年に始まる岩戸景気、池田内閣(60年7月~)の所得倍増計画などの追い風を受け、僅か3年弱の間に3倍強(東証平均株価600円(58年10月)→1,829円(61年7月))という驚異的な値上がりを示した。証券界は空前のブームに沸き、証券各社は急激に業容を拡大した。1958年から63年の5年間で、証券会社の店舗数は1.5倍、従業員数は3倍に増加した。

しかし、その頃の証券会社、証券市場は大きな弱点を抱えていた。「当時は証券界が財務体質、人員構成、営業姿勢、どれをとっても…未成熟な時期にあった」、「そういうときに、大きな信用力を与えられて証券会社は過大な営業活動をやりだしたのです」〔松井〕。「当時の証券市場は、端的に言って、業者中心の市場であった」、「証券業者自身の売買(自己売買)がリードし、活躍している市場ということである。各紙の…市況欄では、どの業者が今日はどう出るかが、その日の重要なニュースであった」〔加治木〕。「これをもとにして、証券会社(は)…自己売買を中心にした推奨販売、つまりディーラー活動中心の思惑というのか、非常にリスクの多い活動をやっておった」〔松井〕。

証券会社のそうした活動を支えたのが、いわゆる「運用預かり」による資金調達だった。「運用預かり」とは、「長期信用銀行の発行します割引金融債14)を投資家にはめ込んでおいて、すぐ証券会社が借り上げ、担保にして、金融機関から資金を調達するという」ものだった〔松井〕。こうして調達した資金は、主として株式の自己売買(商品有価証券)に充てられ、1958年から63年までの5年間で、運用預かり、商品有価証券の金額はそれぞれ数倍に急増した15)。これは非常に危険な状況であり、「預かり有価証券を返還するには、…調達資金によって保有する株式等を売却しなければならない。これが一時に殺到すれば、株式市場に大量の売が出て、市場に恐慌的な影響を与える」おそれがあった16)17)〔加治木〕。

別の弱点としては、投資信託があった。「投資信託は、…ピープルズ・キャピタリズムの一つの方法として、慫慂されたものであった」、「証券ブームに乗って投資信託は巨額の設定をした」、「(その)組入れ額は、…株式の時価総額の10%以上に達しました」、「形式的…には、投資信託委託会社の証券会社からの分離があった」が、実質的には証券会社の推奨販売であったため、「一たん市況が下落するときには、投資信託の解約が多(く)、…売り要因になって…これが非常に大きな株価変動の激化要因になりました」〔松井〕。

この間、株式市況は1961年7月をピークに調整局面に入っていたが、63年7月の米国の利子平衡税公表(ケネディ・ショック)を契機として暴落局面に突入した。その過程で、それまで株価の上昇を支えてきた運用預かりや投信の推奨販売のメカニズムが逆回転を始め、株式需給の悪化が株価下落を招き、さらに証券会社の財務体質を劣化させる負のスパイラルに入ったのである。

⑷ 日本共同証券と証券保有組合

株式買入れ機関である「日本共同証券」の構想は、かなり早く始まっていた。加治木局長は、「(私が証券部長になった昭和)38年(1963年)の5月…もうそのころ証券市場というのはかなり不況感が出ていました。証券会社の自己売買を全部やめさせたんでは市場ができないような状況だったのですが、…個人投資家が自分の見識に基づいて売り、また…買いに出たりして、いい意味の市場価格が形成されるということを期待するにしては余りにまだ弱体でした」、「アメリカのことなんか調べてみますと、年金基金とか…機関投資家がかなり市場で活躍している。機関投資家というのは非常に合理的な判断を前提にして売りまたは買う、…したがって…合理的な計算を前提にした需給になって、いい意味の価格形成機能が営まれているというふうにわれわれ理解した」、「(日本では)銀行その他の金融機関…(にその)ような機関投資家的な機能を期待するのは無理だ」、「むしろ…全銀行の資金をある程度集約して、市場の値ごろによって売ったり買ったりするということを専門家を呼んでやってもらえば、われわれが期待するような機関投資家的な機能を果たせるんじゃないか」と考えた、と述べている。

そして、「(昭和)38年(1963年)…夏ごろから始めたと思いますが、…中山素平さん、当時の興銀の頭取、…富士の岩佐さん、…三菱銀行の宇佐美さん…と相談しました」〔加治木〕。

一方、中山素平興銀頭取は、63年夏前から、株式棚上げ機関が必要であると考え、行内で検討18)するとともに、富士、三菱両行と協議を始めていた。中山頭取は、需給の崩れた株式市場をこのまま放置すれば、信用恐慌まで発展しかねないと危惧していた。また、興銀は債券発行銀行として、「信用預かり」の破綻によって割引金融債の信用が失墜することも恐れていた。

その意味で中山頭取の狙いは、加治木局長とは同床異夢の危機回避策だった19)。加治木局長も、事後的に、「中山素平さんなんかによると、もうはっきり買い支え機関だということを言っていますね」、「(共同証券は)残念ながら買い支え機関化してしまった」と述べ、こと志と異なったことを認めている。

その後、共同証券構想は、加治木部長と協議するとともに、密かに三行の手で詳細の詰めが進められた。「で、大体よかろうという話になったのが38年の暮れだと思います」、「一番最後には、当時の日銀の佐々木副総裁とも相談しましたけれども、決定打になりましたのは、実は池田総理と会って、じゃ、いこうかということになって、そこで決断がおり」た〔加治木〕。

日本共同証券は、1964年1月に設立された。株式市場は当初、これを好感し株価は上昇したが、春以降ずるずると下落し、(池田首相の呼号する)ダウ1,200円防衛をするのがやっとという状況になった20)

また、次第に共同証券の限界も明らかになってきた。同社は、ディーリング専門の証券会社であり、あくまでも営利企業だった。そのため、「共同証券の買う銘柄というのは、…(市場性重視で)第一部の優良銘柄ということになって(いた)」、「(一方で)二部銘柄は市況の影響を…極端に受けやすいんで、どう考えてもこんな値段はおかしいというようなもの」も出ていた〔加治木〕。また、共同証券は民間企業であるため、日銀資金を出しにくいという問題もあった21)

その頃から、「だんだん表にあらわれだしたのは、投資信託の基準価格が下がり、投資家の解約がふえてきた」、「投資信託の売りが非常に盛んになって、…これが市場圧迫の要因にな」ってきた〔松井〕。

共同証券に次いで登場した「日本証券保有組合」は、民法上の任意組合であり、投資信託及び証券会社の保有株を直接買い入れて凍結することを目的としていた。共同証券が、大蔵省、銀行界主導で設立されたのに対し、保有組合は、日銀、証券界主導で設立された。また、保有組合は公共的性格を持っており、組合規約に「運営上の重要事項は、大蔵大臣の指導を受ける」と明記するとともに、「利益の2分の1を資本市場育成のための基金とする」旨定めていた22)

保有組合設立の経緯として、松井局長は、「たしか(昭和)39年(1964年)の暮れも押し詰まって、石野次官だとか…証券界の代表の方数人とこっそり田中蔵相の私邸にお伺いして、非常に簡単に、30分ぐらいの説明で、彼はオーケー。…何でも打てる手があるならば、やれというお指図であったと思うんです」と述べている。

「日本証券保有組合」は、1965年1月から株式肩代わりを開始した。資金の9割は日銀から(日証金経由で)供給され、その3/4が投資信託保有株の肩代わり、1/4が証券会社保有株に充てられた23)。株式市況は、さらに同年7月にかけて下落したが、同組合の活動により、少なくとも投資信託の解約が信用不安を惹起する事態は避けられたと言われている。

⑸ 山一危機・日銀特融と証券取引法改正

山一証券については、「前年(1964年)の5月か6月にたしか検査して…それで、これはどうも相当な内容だ24)ということで、内々主取引銀行である富士、三菱、興銀、三行と相談しながら再建策を考えて、第一弾として打ち出したのがあそこの首脳陣の交代です」〔加治木〕。

1964年10月、山一証券の小池会長と大神社長は赤字決算(64年9月期)発表前に辞任し、後任の社長に興銀OBの日高輝氏が就任した。

その上で、「主取引銀行三行を中心として、…極秘裏に再建計画というものを練り上げていった」、「相当思い切った…金融機関の融資(の元本と利払い)をたな上げにし、…主取引銀行三行だけじゃとても持ち切れないので、たしか二十行ぐらいあった…取引銀行…全体の貸付額を整理の対象にしようと」した〔加治木〕。

ただし、この再建策には、三行以外の取引銀行から合意を取り付けるのに難航が予想された。「それで、当時銀行局長が…高橋俊英さんでしたけれども、…二十行全体を…再建策の中に入ってもらって合意を取りつけるためには、申しわけないが、銀行局もひとつバックアップしてくれということで話を持って行った」〔加治木〕。

またその頃には、山一証券はもはや民間銀行だけでは支えきれず、日銀特融が必要ではないかと考えられた。この点も、高橋銀行局長に依頼され、「ここはもう主として高橋銀行局長と、日本銀行の佐々木副総裁との間で、恐らく十回ぐらいいろいろ議論をしてもらったと思います」〔加治木〕。

一方で、証券局は、64年12月の証取審報告書を受けて、急ピッチで証券取引法改正法案の作成を進めていた。その内容は、「第一は、証券業の登録制から免許制への移行…二番目が証券業協会の全国一本化…三番目が外務員資格の強化25)」だった〔松井〕。この証取法改正法案の国会提出に当たって、当時の大蔵官僚が最も懸念したのは、昭和金融恐慌の二の舞を演じることだった。松井局長は、「ご存知のように、昭和初期の金融恐慌のきっかけは、国会における大蔵大臣の失言から26)というようなことを言われておりますが、ぼくもそういう危機感を感じておったものですから、法案を何としても一日でも早く通したかった。それで社会党だとか共産党の議員が国会の食堂で昼飯、夕飯を食べているのをつかまえて、しょっちゅう話をしに回っておった」と述べている。

1965年4月頃になると、山一証券の再建策の策定が進められていることは、次第に周囲に知られるようになった。「山一再建の段取りが決定するまでは、山一のことが新聞にでも出るとすべてが水泡に帰するということで、その対策に随分苦労した」、「新聞の方には、七社の編集局長会議というのがある…のでそこにアプローチした」、「それで、しょうがない、内容を話して、こういうことなんだ、必ず再建はできるから、再建策が決定するまで記事にしないでくれといって了解をとった」(いわゆる「報道協定」)〔加治木〕。

また、証券局は国会にも口止めをした。「社会党の質問を抑えなきゃいかぬということで、横路(節雄)さん27)の説得にかかった。そのためには、実はこういう内容なんだ。うっかりすると大変な事態になりますよ、だからしばらく質問はやめてくれということを頼み込んで、幸い理解してくれました」〔加治木〕。

証取法改正法案は、65年2月末に国会に提出されたが、「国会へ出してから通るのは、いまから考えれば非常に速かった」〔松井〕。松井局長は、「あんな大きな法案が、野党もよく理解してくれた面があったと思うんですが、速く成立した」、「特に社会党の堀昌雄という議員がおったんですが、社会党の中では金融財政政策を主としてやっておった人で、彼自身もそういうこと(免許制移行)を言っておって、法律改正について野党が大きな理解を示してくれるのに非常に好都合だった。そうしたリーダー格が野党の中におったというのも、私、ありがたかったことだと思うんですよ」と述懐している。結局、証取法改正法案は、5月20日に参議院大蔵委員会で採決され、実質的な審議を終了した。

その翌日(5月21日)、西日本新聞は山一証券の再建策をスクープした。報道協定については、「地方紙と週刊誌をどうするか」という問題があった。しかし、「みんなまだ知らぬだろう、…七社が書かなけりゃ大丈夫だから…ということで、地方紙と週刊誌はほうっておこう」〔加治木〕としたことが裏目に出たのだった。

大蔵省は急遽、「山一証券の再建策には民間銀行が協力し、日銀も配慮するので、投資家に不安を与えることはない」旨の蔵相談話を発表した。主取引三行も記者会見をして、山一再建策をバックアップすると表明した。

しかし、報道協定が切れて、各紙が一斉に山一問題を報じるようになると、山一証券の店頭には、投信、運用預かりの解約を求める客が殺到した。山一証券の資金繰りはたちまち行き詰まり、28日には資金ショートすることが明らかとなった。

この間、「再建策についての関係銀行の合意を取りつけ(るため)、…(銀行を)全部集めて、…これもずいぶんもめましたけれどもね。高橋銀行局長も、ちょっとああいう男だから28)なんですけれども、相当強引にまとめてくれた、こっちがはらはらするぐらい」〔加治木〕。

そして、「5月28日に…日本銀行の氷川寮を使いましたが、三行の頭取と大蔵省側、最終的には大蔵大臣にも出てもらっ」て、山一証券に対する日銀特融発動が決定された29)。その深夜の記者会見で、田中蔵相は、「無担保、無制限に」山一証券向け日銀特融を行うと発表した。

この発表により、山一証券に対する解約ラッシュは終息した。株式市況は、その後も下落が続いた30)が、同年7月の福田新蔵相の国債発行方針の表明により一挙に上昇軌道に復帰した。山一証券の再建策は、当初、その日銀特融(282億円)の返済に18年掛かると見られていたが、株式市況のV字回復により、実際には約4年で完済された。

注釈

  1. 1) 草野厚『証券恐慌―山一事件と日銀特融』(1989年 講談社文庫)の人物評。
  2. 2) 谷村裕『大蔵属、月給七拾五圓―私の履歴書』(1990年 日本経済新聞社)P80参照。
  3. 3) 坂野常和『私と証券』(2004年 非売品)P205参照
  4. 4) 加治木局長の口述記録には、「加治木メモ」と題する要点を纏めた文書が付属している。
  5. 5) 証券局発足時には課長補佐クラスでも、禿河徹映(のち内閣府次長)、水野繁(同国税庁長官)、小粥正巳(同次官)など優秀な人材が配置されている。1964年当時、大蔵省官房も、証券行政に危機感を持っていたものと思われる。
  6. 6) 当時は「地味な部署になっていた」が、戦時中は大蔵省の政策の中心と呼ばれた理財局金融課(臨時資金調整法、会社経理統制令などを作成した)の流れを汲む由緒ある課だった〔庭山慶一郎『懐旧九十年―燃える魂の告白』(2008年 毎日新聞社)P277参照〕
  7. 7) 松井局長の口述記録の中で、同席した坂野総務課長(当時)が語っている部分。
  8. 8) 谷村・前掲書P80及び坂野・前掲書P206参照。
  9. 9) 坂野常和氏(のち証券局長、日本化薬社長)。証券二課長時代に「坂野通達」を発出(1963年)するなど厳しい証券行政を展開しようとした。また、証券会社に対して歯に衣を着せぬ発言をしたことから、証券界から「鬼の坂野」と恐れられた。
  10. 10) 1948年の証取法施行以来1964年3月まで、証券業者は累計1,567件登録され、そのうち登録取消し324件及び自主廃業649件の合計973件(実に6割以上)が退出している。いかに当時の証券業者の体制が脆弱であったかを物語っている。
  11. 11) 証取審の席上、坂野総務課長が免許制に余り反対するので、堀越証取審会長が「証券会社のお行儀が悪い。そんな会社を登録制にしておいて、法令違反があったら叩けばいいという考え方は、非常にずるいやり方である。へっぴり腰の行政である」と叱責した、というエピソードがある〔坂野・前掲書 P202参照〕。
  12. 12) 1964年4月、堀昌雄議員(社会党)の(やや誘導的な)質問に対して、田中蔵相は「(事務方は明言したら困ると言うけれども)私は、免許制を第一の仕事として取り組まなければ、証券局の存在理由はないと考える」旨答弁し、免許制移行の旗幟を鮮明にした。
  13. 13) 証券会社の店舗数は、2941店(1963年8月)から1849店(68年末)へと約4割減少した。
  14. 14) ワリコー等の1年物割引金融債は、当時、償還差益が非課税だったこともあり、銀行預金に比べて有利な貯蓄手段として人気商品だった。長期信用銀行は支店が少なかったことから、証券各社が主要な販売チャンネルとなっていた。
  15. 15) 1958年から63年にかけて、運用預かりは590億円から2,091億円、商品有価証券は418億円から2,235億円に増加した。
  16. 16) このような証券会社のハイリスクな資産・負債の膨張、固定費の増大に歯止めを掛けようとしたのが「坂野通達」(1963年7月 理財局長通達『証券業者の財務管理等について』)だった。同通達は、財務比率等を導入することにより、運用預かりや商品有価証券等の上限を画そうとした。しかし、それが業界への根回しなく突然発出されたこと、直後のケネディ・ショックによる株価下落の原因とされたこと等から、証券業界は強く反発した。結局、同通達は実施期限が弾力化され、実効性を上げることなく証券恐慌を迎えた。
  17. 17) 運用預かりは、1943年の免許制への移行と同時に禁止された。
  18. 18) 戦前にも、興銀が中心となって設立した株式買支え機関「日本協同証券」があった(1941年1月設立)。同証券は、銀行、保険、株式取引員など全金融機関が参加し、政府の支援を受ける強力な株式買支え機関だった。中山頭取は、共同証券の検討に当たって、この協同証券の経験を(伊藤元頭取から聞くなど)勉強したと述べている〔中山素平氏証券史談(『続戦後証券史を語る』)参照)
  19. 19) 中山頭取の構想を大蔵省に打診に行った興銀・菅谷企画室長は、証券局も買入れ機関の設立を検討していることを知って驚いたとされる〔草野・前掲書P75参照〕。
  20. 20) 共同証券は、1964年の約1年間に1897億円の株式を買い上げた。
  21. 21) 日銀は当初、慎重な姿勢をとっていたが、1964年秋から共同証券への資金供給(日証金経由)を開始し、結局、所要資金の約1/3を提供した。
  22. 22) のちに、保有組合の株式売却益をもとに資本市場振興財団が設立された(1969年)。証券界は、利益の1/2を拠出するとともに、残りの1/2も低利寄託金として提供した。
  23. 23) 保有組合は、1965年1月から7月にかけて2,328億円分の株式を肩代わりした。
  24. 24) 山一証券は、大神社長ら経営陣の「強気一本槍」により急激に業容を拡大した上、他社に比べて経営合理化への転換が遅れたため、著しく財務体質を悪化させた。また、含み損を多数の子会社へ複雑に「疎開」させていたため、当局及び(役員を派遣していた)主取引銀行が全貌を把握するのが遅れた。
  25. 25) 外務員制度を届出制から登録制に移行し、法令違反等著しく不適切な行為をした者には登録取消し又は一定期間の職務停止の処分を行えるようにした。また、外務員の権限を明確化し、証券会社は外務員の行った職務上の行為に責任を負わなければならない、ことを定めた。
  26. 26) 1927年、震災手形法案(同手形による損失を政府が穴埋めする銀行救済策)の議会審議において、野党から徹底的な情報開示と責任追及を執拗に求められた片岡直温蔵相は、金融救済の必要性を強調するため、やや開き直って新たに発生した銀行破綻に言及し、昭和金融恐慌の引き金を引いたとされる。また、同法案に関連する緊急勅令が枢密院で否決され、混乱が拡大した。1965年当時、大蔵省は、証取法改正法案の国会審議で証券業界の実態を問い質され、証券市場に不安が広がることを警戒する一方、同法案が流れて証券業界の信頼回復策を実行できなくなるのも困ると考えていた。
  27. 27) 当時、社会党の国会対策委員長。のちの横路孝弘・北海道知事、衆議院議長の父。
  28. 28) 高橋俊英氏は、その麻雀の打風から「ゴリポン」の綽名を持ち、「いったんこうと決めたら、梃子でも動かず、その道をまっすぐに進むと言われた」〔草野・前掲書による人物評〕。のち、公正取引委員会委員長。
  29. 29) 28日夜の日銀氷川寮での会議は、山一証券への日銀特融を日証金経由にするか、三行経由にするかで膠着していたが、遅れて参加した田中蔵相が「きみはそれでも銀行の頭取か」と一喝したことで議論の流れが変わり、後者で決着したと言われている。
  30. 30) 7月12日に1,020円49銭の最安値をつけた。