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第66巻第10号(2026年10月)

〔JSRI時事エッセイ 鈴懸の木の下〕コーヒー・紅茶・砂糖

佐賀 卓雄(当研究所名誉研究員)

「実際不思議なほどに、茶は18世紀イギリス帝国主義の原動力となった国際間の金、商品、人、観念の複雑な流れの中心を占めていた―それは高収益の対中国貿易の基盤であり、北米植民地における本国の恣意的統治の象徴であり、南アジア一帯における農業的植民地化の要であった。そして、イギリス人が毎日飲むささやかな一杯の中で、カリブ海地域産の砂糖(イギリス人の消費パターンを一変させたもう一つの外来食品)のパートナーとなったのが茶であった。」(エリス他(2019)、11頁)

「…紅茶文化は18世紀の重商主義を生み出したばかりではなく、重商主義時代の典型的文化として形成されることになるのである。…そして、紅茶文化を支えた柱は二つあった。一つは西インド諸島における砂糖植民地の確保であり、いま一つは中国茶の支配、あるいは植民地における茶樹の栽培とその生産・確保であった。」(角山(1980)、95頁)

「奴隷制がなければ、1650年から1850年にわたるカリブ海砂糖プランテーションのめざましい発展は不可能であったろう。」(ウィリアムズ(1944)、55頁)

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イギリス人の飲茶に対するこだわりは半端ではない。王立化学協会が「一杯の完璧な紅茶の入れ方」を発表し、紅茶とミルクのどちらを先に淹れるかをめぐる長年の論争である「ミルクインファースト(MIF)」と「ミルクインアフター(MIA)」に対して、後者を推奨しているといった具合である1)。

また、第二次世界大戦の時に、ウィンストン・チャーチル首相は「たとえ戦地で弾丸が切れようとも、紅茶は絶対に切らしてはならない」と述べたといわれている。同じように、その時に新しく組織された帝国茶局は慈善団体から資金的、人的支援を受けながら、「ティーカー」を運用し、兵士や被災者などへの茶の供給を始めた2)。

イギリスの朝食(イングリッシュ・ブレックファースト)は、紅茶、シリアル、パン、卵料理、ベーコンとボリュームがある。17世紀にはパンとオートミルが食事であったが、1750年以後、次第に焼き菓子、ジャムを塗ったパン、糖蜜プディング、ビスケット、タルト、キャンディなどが食卓に並ぶようになり、それにともない暖かい飲み物も加わった3)。茶はコーヒーやチョコレート(ココア)に較べるとひどく薄いものでも我慢できた。出がらしに近い薄い茶でも、砂糖を入れれば暖かい飲み物としてそれなりに満足できたのである。従って、これらの飲み物の中でも茶は最も安上がりであった4)。

国民の生活スタイルの変化は、多くの要因が絡み合い長い時間をかけて進む。イギリスの非アルコール飲料に対する趣向の変化はこの典型の一つであろう。今日では飲茶の習慣が根付いているが、一般の国民にとって、茶5)はそれに入れる甘味料である砂糖とともに、17世紀後半までは稀少で高価な奢侈品であって、医薬効能を持つ貴重品でもあった。

これが不可欠の日常的な飲料として定着し生活スタイルを根本的に変化させた過程は、様々な世界史的事件も絡んだ大変興味深い歴史を形成している。

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グローバル経済の幕開けは「大航海時代」を画期とする。西ヨーロッパ諸国が海路でのインド、アジアを目指したのは、陸路のシルクロードがイスラム教勢力(オスマン帝国)に抑えられていたという地政学的な理由による。既に13世紀のマルコポーロの『東方見聞録』などにより、西ヨーロッパ諸国では貴重な香辛料がアジア諸国ではふんだんに存在することが知られており、その獲得、それに加えて当時エチオピアに存在すると信じられていたキリスト教国王プレスター・ジョンと連携してキリスト教の勢力圏を拡張することが目的であった。

かくして、まずポルトガルの「航海王子」と呼ばれたエンリケ王子はアフリカ大陸沿岸を南進して東回りでインド、アジアを目指した。これはヴァスコ・ダ・ガマのアフリカ南端の喜望峰経由でのインド・カリカッタ到着と帰還(1497-99年)に結実した。

他方、クリストファー・コロンブスはスペインの支援を受けて西回りでインドを目指した。コロンブスは1492年にハバナ諸島サン・サルバドール島に到着した。コロンブスは計4回にわたる航海でヨーロッパの製品や動植物を持ち込む一方、カリブ海諸島の産物をヨーロッパに持ち帰った。植物では、旧世界(ヨーロッパ)から砂糖キビ、コメなど、家畜では馬、牛など、新世界からトウモロコシ、ジャガイモなどの植物、家畜ではアルパカ、リャマなどがそれぞれ持ち込まれた。加えて、旧世界から、マラリア、ペスト、天然痘、麻疹などの感染症、新世界からは梅毒が持ち込まれることになったのである。これを「コロンブス交換」6)と呼ぶ。

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歴史的に見れば、17世紀末-18世紀初頭にはロンドンには2千軒以上の「コーヒー・ハウス」があったといわれるように、非アルコール飲料としてはコーヒーが良く飲まれていた(ただし、女性の入店は禁止されていた)。コーヒー・ハウスは、入店料1ペンス、コーヒー2ペンスという料金で、終日、新聞・雑誌を読んだり、知り合いとの雑談で過ごすことができた。しかし、当時の労働者の日当は2、3シリング程度であり、彼らにとっては気楽に時間つぶしに利用できる場所ではなかった7)。

従って、コーヒー・ハウスは、主として商談や、ゴシップを含めた情報収集の場として利用された。その結果、イギリスの社会や経済制度に多大の影響を及ぼすことになった。例えば、イギリスの郵便制度(特に、海外への郵便はコーヒー・ハウスを集配場所にしていた)、証券取引制度(ジョナサンズ・コーヒー・ハウス)、損害保険制度(ロイズ・コーヒー・ハウス)などはコーヒー・ハウスをルーツとしている8)。茶の小売りを最初に始めたのもギャラウエイ・コーヒー・ハウスである。

また、アメリカで外食する際に日本人が悩まされるチップの習慣も、元々はイギリスの紅茶メーカーであるトワイニング社が経営するトムズ・コーヒー・ハウスが、急いで注文したい客から少額の手数料で要望に応え、他のコーヒー・ハウスに広まったことがルーツである(ʻTo Insure Promptness’(「速いサービスを保証」)(TIP))9)。

コーヒー・ハウスはイギリス人の社会・経済制度、生活習慣に多大な影響を及ぼしたが、比較的短期間の内に衰退し、その地位を紅茶に譲ることになる。

このように、イギリス人の飲み物に対する嗜好は大きく変化してきたが、コーヒー、茶、チョコレート(ココア)、そしてかつてはふんだんに淹れていた砂糖のいずれも国産ではなく、当初は高価な貴重品であった。中でも茶は中国とインド、そして砂糖は西インド諸島(カリブ海諸島)産であり、両植民地との間の三角貿易によってイギリスに大量かつ安定的に流入したものである。かくして、「1650年には珍しい貴重品であった砂糖が、1750年には奢侈品となり、1850年までには事実上の必需品となったのである」10)。

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新世界への進出で先行していたポルトガル、スペインはカリブ海諸島やベネズエラ沿岸の良質な真珠を手に入れると、パナマを経由して太平洋岸のメキシコ、ペルーでアステカ帝国、インカ帝国を滅ぼし、莫大な金銀を手に入れた。フランスや、後発のオランダ、イギリスは手薄となったカリブ海諸島に進出し、そこに砂糖プランテーションを築いていった。

ポルトガルとスペインは、南アメリカ、カリブ海諸島の植民地化に覇を競い、領有権をめぐる争いが続いた。結局、ローマ教皇の裁定により1494年のトルデシーリャス条約によって、西アフリカのベルデ岬諸島西方370レグア(当時のスペインの距離の単位で、1レグアは5~6キロメートルに相当する)(約2000キロメートル)と南北両極を結ぶ線を境界線として、その西側で発見された土地をスペイン、東側はポルトガルの領土とすることが定められた(この結果、ブラジルはポルトガルが領有することになった)。しかし、その後、ヨーロッパ諸国がインドやアジア諸国、そして太平洋に進出し始めると、ここでも領有権をめぐる争いが生じ、1529年のサラゴサ条約によって、トルデシーリャス条約で定めた境界線を延長し地球の裏側をも分割した。その境界線は、モルッカ諸島(マルク諸島、インドネシア共和国に所属し、かつては「香料諸島」として知られていた)の東方297.5レグア(約1600キロメートル)の地点に引かれた11)。

カソリック諸国が自己中心的に決めた境界線などプロテスタント諸国が守るはずがないから、オランダ、イギリスは当然のごとく無視して、ポルトガル、スペインの植民地を奪い取った。かくして、カリブ海諸島、中南米、そしてインド、アジア諸国を舞台に植民地争奪戦が繰り広げられることになったのである。

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最近でこそ、健康上の理由(糖質制限)から砂糖の利用を控えることも多いが、カリブ海諸島の砂糖プランテーションが登場し安い価格で入手できるようになると、カロリー源として重宝された。

砂糖の原料となるサトウキビはニュージーランド原産で、地中海沿岸や北アフリカなどでも栽培されており、ヨーロッパでは甘味料として広く知られていたが、それまでは砂糖は高価な貴重品であり、甘味料としては蜂蜜が使われていた。コーヒー、茶もそうであるが、舶来品は医薬品、あるいはある種の薬効をもつ医薬品の一つとして紹介された。砂糖の場合、それに加えて、特権階級の香料(胡椒やナツメグなどと同じ扱い)や装飾用素材としても使われ、ステイタス・シンボルであった12)。

先行したポルトガルはブラジルに砂糖プランテーションを作り、サトウキビの栽培に乗り出したが、スペインは貴金属に対する執着心が強く、最初は原住民を強制してカリブ海で真珠の採取に取り組んだ後、メキシコ、ペルーなどでの金銀の略奪に邁進した13)。その権力の空白を突く形で、フランスと、新興国オランダとイギリスがカリブ海諸国を植民地化し砂糖プランテーションを作り上げた。それは歴史上、アフリカ人奴隷貿易を組み込んだ三角貿易14)として知られている。

砂糖は、まず砂糖キビの繊維を叩き潰して液を取り出し、それを煮詰めて冷却、結晶化させ、「粗糖」を作る。この過程で、副産物として「糖蜜」、それを蒸留すると「ラム酒」ができる。これを繰り返すには、加熱装置や燃料に投資して適温を保つことが必要であり、カリブ海諸国の植民地化とともに、多数の大規模な砂糖プランテーションが建設された。

粗糖を作るには工程を迅速に処理することが不可欠で、労働集約的な特性を持つため、労働力確保のために夥しい数の黒人奴隷が投入された15)。ここでは、時間管理が重要で、封建制の下での家内工業とは様相を異にしていた。いわば資本主義的な秩序だった工場制工業を先取りした「早咲きの工業化」16)がみられたのである。

粗糖は精製工程を経て白糖となるが、この工程はイギリス本国の製糖工場が担った。18世紀中頃のイギリスには120の製糖工場があり、ブリストル、ロンドン、グラスゴーの主要都市に所在した17)。また、奴隷貿易はリバプールの発展に大きく寄与した。かくして、17世紀以降のカリブ海諸島の植民地化と砂糖プランテーションの拡大にともない、砂糖の価格は低下しその消費は大幅に増加した。砂糖は飲茶のみならず、料理全般に欠かせないカロリー源としても必需品になったのである。

このように、奴隷貿易はイギリス産業革命の資本蓄積に大きく寄与した(「ウイリアムズ・テーゼ」18))。

一方、茶はもっぱら中国からの輸入に頼っていた。しかし、イギリスで飲茶の習慣が広がってくるにつれ、対中国貿易の赤字幅が拡大し、決済のための銀の流出が悩ましい問題となった。これに対する対策として、イギリス政府は貿易収支の入超を解消するための輸出商品を開発すること、そして中国国内から茶の種子・苗木を持ち出し、本国あるいは植民地で栽培することを目指した。前者は、インドで栽培したアヘンを中国人に売り付けるという三角貿易の形で実行されたが、アヘン戦争の原因になった。後者の植民は、イギリスが新世界の未知の植物を自ら育てるという目的で1759年に創園した、広大な敷地を持つロンドン郊外のキュー・ガーデンや、インドのカルカッタ植物園が活用された。東インド会社は「紅茶ハンター」を雇い、中国福建省の茶の苗木を持ち出し、カルカッタ植物園でその栽培に成功した19)。その後、アッサムやセイロンは茶の一大産地として成長し、イギリス国内の需要を満たすことになる。

西インド諸島(特に、バルバトス)の砂糖プランテーションの所有者は不在地主で、子弟を本国の名門パブリック・スクールに通わせ、政治的にも奴隷貿易商人などとも手を握り、強力な政治力をもつ西インド諸島勢力を形成した。それに対して、北アメリカの煙草や綿花のプランテーションの所有者はそれほどの政治力を持っていなかったため、本国が茶に対する課税を引き上げた時、それを阻止する力はなかった。こうした事情が、怒った住民の一部が1773年12月に東インド会社の3隻の商船の積荷(茶)をボストン湾に投棄するというティー・パーティ事件の背景である20。これがアメリカ独立戦争につながる事件であるが、同時にアメリカ人の茶離れのきっかけにもなった。この後、アメリカ人の飲み物の趣向は茶からコーヒーへと変わっていく。

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何時の時代にも物事の流行り廃れはあるが、生活スタイルを根本から変化させた流行りということになれば、歴史的にも稀有なことであろう。イギリスにおける飲料としての(紅)茶の定着は、そのような稀有な例の一つとして評価される。また、その過程で、アヘン戦争、アメリカのティー・パーティ事件と独立戦争、また砂糖に絡んでは奴隷貿易や砂糖プランテーション、その後の黒人奴隷によるハイチ革命やモノカルチャー経済の後遺症ともいうべきカリブ海諸島の経済停滞など、世界史的に重大な事件を引き起こしたことも記憶されるべきであろう。

これを18世紀前半にロンドンだけでも2千店を数えたコーヒー・ハウスと比較すれば、その広がりと深度が分かる。コーヒー・ハウスは誰でも気軽に入店し時間をつぶすことができたため人気となった。そこは商売の交渉の場であるとともに、物書き、ゴシップ・ライターなどにとっての格好の情報源でもあった。だから、郵便制度、証券取引、保険など経済史的に重要な制度を培養するインキュベーター(孵卵器)としての役割を果たしたのである。

しかし、イギリス国民の生活スタイルへの影響は限定的なものに留まったといえよう。一つには、コーヒーを一般家庭で抽出することは難しく普及しなかったことである。これには女性が蚊帳の外に置かれていたことも大きく影響したであろう。また、出入りが自由であったために、騒乱を引き起こしかねない政治的な集会などを規制できず、政府から警戒され始めたことがある。さらに、当時の労働者階級にはコーヒー・ハウスで時間をつぶす経済的な余裕はなく、入店者の層が限られていた。この結果、コーヒー・ハウス・ブームは18世紀後半には衰退し、タバーンやパブといった酒類も提供する業態と融合していった。

これに対して、茶はイギリス国民の生活に溶け込んでいった。その背景として、いくつかの要因を指摘できる。第一に、茶価格の低下と入手可能性の拡大である。元来、輸入品であった茶は奢侈品であり、王室や貴族のステイタス・シンボルとして尊ばれた。これは砂糖についてもいえることであるが、当初は薬品としてその効能が売り物にされたりしたのである。

しかし、アヘン戦争前後に植民地インドでの茶の栽培に成功すると、中国との間での入超と銀の流出という悩ましい問題を解決できただけではなく、安価かつ大量に茶を本国に送ることができたのである。これには、輸送船が風任せの帆船から蒸気船に代わったこと、また1869年のスエズ運河開通によって、輸送に伴うリスクが低減されるとともに輸送期間が短縮されたことも、茶の鮮度の向上、コストの低下に大きく寄与した。

第二に、当時の先進地域であった東洋に対する憧憬を刺激したことである。そもそも、胡椒やクローブ、ナツメグなどの東洋産の香辛料の獲得が大航海時代の幕開けとなった動機であったし、飲茶に使われる陶磁器とその絵柄はエキゾチックな東洋趣味として人気が高まった。ティー・コンプレックスと呼ばれる飲茶セットは、アフタヌーン・ティー、ハイティーが習慣化されると、贅を尽くしたステイタス・シンボルとなったのである。

第三に、ファッション・リーダーの存在である。現在でもそうであるが、イギリス王室の新しい生活スタイルやファッションは国民生活に対して大きな影響力を持っている。飲茶の習慣が定着するにあたっても、二人の王妃と一人の公爵夫人が大きな役割を果たした。

最初にイギリスに飲茶の習慣を持ち込んだのは、1662年にチャールズⅡ世に嫁いできたポルトガルのブラガンザ家のキャサリン妃である。彼女は茶とポルトガルがブラジルに持つ砂糖プランテーションで製造した砂糖を7隻の船に満載して持参したという。これをきっかけに、イギリス王室内で初めて茶という飲み物が知られ、飲茶の習慣が定着した。二人目はアン・スチュアート女王(在位1702-14年)である。彼女は一日に何度も飲茶の時間をとるという習慣を定着させた。そして3人目は、ビクトリア女王とも昵懇の間柄であった7代目ベッドフォード公爵のアンナ・マリア夫人(1783-1857年)である。彼女は、親しい友人をもてなすアフタヌーン・ティーの習慣を定着させた。そして、そこで使われる高級な飲茶道具(ティー・コンプレックス)とスコーンやスイーツ類は国民にとっては垂涎の的であった。

かくして、飲茶はイギリス人にとって奢侈品を使う贅沢から、食事の際の飲み物に留まらず、知り合いや友人とのコミュニケーションにも欠かせない習慣となったのである。

注釈

  1. 1) 紅茶にミルクを入れて飲むようになるのは18世紀前半からで、それまでは砂糖を入れて飲んでいたようである(エリス他(2015)、231頁)。
  2. 2) エリス他(2019)、420-23頁
  3. 3) ミンツ(2021)、298頁
  4. 4) ミンツ(2021)、254頁
  5. 5) 茶は大きくは、発酵の程度により、緑茶(蒸すなどした不完全発酵茶)、ウーロン茶(発酵度30-50%)、紅茶(完全発酵茶)に分類される。イギリスでは当初はいずれの種類の茶も入ってきてブレンドして飲まれたりもしたが、19世紀後半のビクトリア朝の時代にはほぼ紅茶が飲まれるようになった(角山(1985)によると、18世紀初めには緑茶が輸入茶の半分以上を占めていたが、1855年では緑茶の割合は輸入茶の7分の一まで低下している(エリス他(2019)、365頁)。
     なお、17、18世紀にイギリスで広く飲まれていたボヒー茶というのは福建省の武夷茶がヨーロッパへ輸出された際の呼び名で、「ブラック・ティー」とも呼ばれた。
     同様に、茶に砂糖を入れるのは、イギリスが西インド諸島バルバトスを植民地として砂糖プランテーションを確保した18世紀にはごく普通の習慣になったが、ミルクを入れる習慣は鉄道網が整備されロンドンでも新鮮な牛乳が手に入るようになったビクトリア朝以降のことである。
     なお、中国からヨーロッパへの茶の伝搬は海路と陸路の二つのルートがあり、ヨーロッパでは前者により流入した茶は「Tea」、後者は「Cha」と呼ばれた。
  6. 6) Crosby(2013)
  7. 7) この時代のイギリスは12進法であり、1ポンドは20シリング、1シリングは12ペンス、したがって1ポンドは240ペンスである。現在の感覚でいうと、1ポンドは20-50万円と推定されるから、入店料とコーヒー代で3千円から6千円ぐらいであろうか。
  8. 8) 小林(1984)を参照
  9. 9) Cha Tea紅茶研究会(2021)、25頁。なお、最近、日本では人気があり行列のできる飲食店で、500円程度の追加料金を支払えば並ばずに店内での食事ができる「ファスト・パス」が採用されている。これなどはTIPの初期の姿である。
  10. 10) ミンツ(2021)、326頁
  11. 11) クロスビー(2003)、141-43頁
  12. 12) ミンツ(2021)、第3章参照。同書には砂糖デコレーションの写真が数枚掲載されている。
  13. 13) 山川(2008)
  14. 14) アジアでは、イギリス製品、中国茶、インド産アヘンとの間での三角貿易が有名である。
  15. 15) 15世紀から19世紀にかけて奴隷として取引されたアフリカ人は2800万人に達するが、そのうち1250万人がアメリカ大陸とカリブ海に運ばれたという。
  16. 16) ミンツ(2021)、127頁。同書の第2章ではこの評価について詳細に論じられている。
  17. 17) ウィリアムズ(2020)、124-28頁
  18. 18) ウィリアムズ(2020)
  19. 19) この経緯については、ローズ(2011)に詳しい。
  20. 20) この時のスローガンである「代表なくして課税なし」(自分たちの代表がいない議会で勝手に税金や法律が決められた)は、イギリス本国とアメリカ植民地の関係を良く表している。

(引用・参考文献)

  • 川北 稔(1996)、『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書
  • キリン歴史ミュージアム『酒・飲料の歴史―紅茶の話』、第1話-第7話
  • 小林章夫(1984)、『コーヒー・ハウス』駸々堂
  • Cha Tea 紅茶教室(2021)、『図説 英国紅茶の歴史』(新装版)、河出書房新社
  • 角山 栄(1980)、『茶の世界史』中公新書
    ______(1985)、「イギリス人が最初に飲んだお茶」、『学士会アーカイブス』、No.769
  • 山川篤美(2008)、『黄金郷伝説』中公新書
  • Crosby A.W.(1997), The Measure of Reality;小沢千恵子訳(2003)、『数量化革命』紀伊国屋書店
    _______(2013), “The Columbian Exchange: Plants, Animals, and Disease between the Old and New Worlds”, March 29
    _______(2015), Ecological Imperialism;佐々木昭夫訳(2017)、『ヨーロッパの帝国主義―生態学的視点から歴史を見る―』ちくま学芸文庫
  • Ellis M., Coulton R., and Mauger M.(2015), Empire of Tea: The Asian Leaf that Conqured the World;越 朋彦訳(2019)、『紅茶の帝国―世界を征服したアジアの葉―』研究社
  • Mintz S.W.(1985), Sweetness and Power:The Place of Sugar in Modern History;川北 稔、和田光弘訳(2021)、『甘さと権力 砂糖が語る近代史』ちくま学芸文庫
  • Rose S.(2010), For All the Tea in China: How England Stole the World’s Favorite Drink and Changed History;築地誠子(2011)、『紅茶ハンター ―英国人プラントハンター中国をゆく―』原書房
  • Williams E.(1944), Capitalism & Slavery;中山 毅訳(2020)、『資本主義と奴隷制』ちくま学芸文庫