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第66巻第9号(2026年9月)

〔論稿〕小説『大番』に見る戦前・終戦直後の証券取引の実相

森本 学(当研究所理事長)

はじめに――小説『大番』

戦前期(及び終戦直後)の証券取引は、戦後1949年の証券取引所再開以降の取引所集中、現物取引中心のそれとは、かなり異なる性質を持っていた。証券史の研究では、史料の収集・読解が本筋であり、オーラルヒストリーが併せて用いられるが、それらの資料の相対的に乏しい戦前期については、小説に描かれた証券界の姿を瞥見することも、その実相を知るために時に有効である。

戦前期の株式市場を舞台とした代表的な小説に、獅子文六の『大番』がある(ほかには、城山三郎の『百戦百勝』など)。『大番』は、1956年2月から1958年3月にかけて『週刊朝日』に連載され、連載中から大人気を博した。『大番』の主な登場人物には明確なモデルがあり、話の展開もほぼ実際の史実に即している。

『大番』の主人公、赤羽丑あかばうし之助〔「ギューちゃん」〕のモデルは、佐藤和三郎〔「ブーちゃん」〕(1902年~1980年)という当時有名な相場師であり、まだ現役で活躍中だった。獅子文六は、通俗小説の名手として知られるが、本来は劇作家であり、海外留学、国際結婚もしたインテリで、経済・金融にも知識があった。

また、『大番』は、連載中に既に映画化(加東大介、淡島千景主演)された(1957年3月)。その後も、『続大番』(57年7月)、『続々大番』(57年12月)、『大番 完結編』(58年7月)と映画化され、いずれも大ヒットした(昨年11月から、それらのDVD版が発売されている1))。

1.丑ちゃん、現物店に奉公する

主人公の丑ちゃんは、四国宇和島近郷の貧農の倅だったが、子供の頃から度胸と勝負強さがあった。青年になった丑ちゃんは、ラブレターをガリ版で刷って配るという不祥事を起こして故郷を出奔し、1927年(昭和2年)に上京する。その時、ラブレターを配った相手の一人は、近郷一の令嬢(映画では原節子)であり、丑ちゃんの生涯の憧れの人となる。

上京した丑ちゃんは、日本橋坂本町の株式現物店「太田屋」を紹介され、そこに奉公する。坂本町は、現在は兜町の一部であるが、坂本町公園や阪本小学校にその名を残す、東証から永代通りを渡った一帯である。現物店とは、株式の(仕切りで)現物売買はするが、清算取引は、取引所の取引員に取次ぐ証券業者だった。太田屋は、店員10名程度の小規模な現物店だったが、当時の坂本町にはそうした店も多く、盛んに株式の場外取引2)を行っていた。

丑ちゃんは、その太田屋の丁稚になり、初め雑用から次第に株式取引に係わる役目を与えられるようになる。最初は相場通しで、店と東株立会場を走って往復し、店の注文や東株での執行の状況を伝える仕事だった(まだ電話は余り普及していなかった)。

その頃、丑ちゃんは丁稚仲間に誘われて「合百」を経験する。合百ごうひゃくとは、一種の場外賭博であり、次の立会いで特定の銘柄が一定の価格より上の価格になるか下になるかを賭けるものである。合百は、江戸時代以来の伝統3)を持ち、当時、胴元(合百師)が居て相当幅広く行われていた(他の小説等にもしばしば登場し、一斉摘発されたこともある)。

その後、丑ちゃんは場立ちになる。太田屋は現物店であるが、親店おやだなの門鑑を借りて場立ちが立会場内に入って取引することが出来た(親店の取引として決済するものと思われる)。当時の東株市場館(1928年~1980年代)落成の盛大な祝賀会の様子も描かれている。またその頃、丑ちゃんは親店の富士証券〔モデルは山一証券。以下同じ〕の幹部で東大出の木谷さん〔太田収おさむ4)〕の知遇を得る5)。木谷さんは、丑ちゃんの生涯の株式取引の師となる。

2.丑ちゃん、サイトリになる

丑ちゃんが、徴兵検査のため帰郷して東京に戻ってみると、太田屋は潰れていた。当時、現物店はかなり(自己又は客の)ポジションを取っており、市況次第で簡単に潰れた。失業した丑ちゃんに、木谷さんは「サイトリ(ランニング・ブローカー)をやったらどうか」と勧めた。「サイトリ(才取)」は、現物店の間を走り回って商いの出会いをつけ、また情報を提供するビジネスだった。現物店だけでは(仕切り)現物売買はできず、実際には、才取人の情報により出会いの付いたものを取引していた。丑ちゃんは、木谷さんの紹介で、茅場町の蕎麦屋近くの「渋谷商店」という(机一つで営業している)サイトリ店に所属して仕事を始めた。給料は、ほぼ歩合給だった。

サイトリの仕事をするうちに、丑ちゃんは次第に相場に目覚める。また、才取人の同業者組合6)に出入りして、ベテラン才取人の相場哲学(?)を聞いたことも刺激になった。

3.丑ちゃん、相場を始める――短期清算取引

1931年、満州事変が勃発する。株式市場は、前年の金解禁以来、下落相場となっていたが、丑ちゃんは満鉄株を買い始める。丑ちゃんが取引したのは、短期清算取引(買建て)であり、当時の株式市場で最も盛んな取引仕法だった。

戦前期のわが国株式の取引所取引は、清算取引中心であったことが大きな特色である。清算取引とは、個別株の先物取引であり、江戸時代の米市場由来の諸外国に例を見ない取引仕法だった。

短期清算取引は、1922年の取引所法改正によって導入された取引である。この法律改正は、株式取引の決済期限を短くする(実物化)ことにより、従来の投機的な取引の健全化を意図したものだった。ところが、大阪株式取引所は、その趣旨を換骨奪胎し、決済期限を繰延べ出来る7)ようにして、従来の清算取引(長期清算取引)よりも一層投機性のある取引仕法にして導入した(東京株式取引所は2年後に追随した)。

短期清算取引は、取引所税や証拠金等が長期に比して低廉だったことなどから、その導入後、長期清算取引を遥かに凌ぐ売買高となり、わが国取引所の主力取引となった。

丑ちゃんは、木谷さんの励ましも受けて満鉄株を更に買った。丑ちゃんの様な馴染み客には、当時、ムジキやウスバリ(証拠金を少ししか取らない又は全く取らない)で短期を張らしてくれる店はたくさんあった。すると、犬養政友会内閣への政権交代があり、高橋是清蔵相による金輸出再禁止が実施されて、株式市場は急反騰した。

丑ちゃんは、たちまち満鉄で10万円(現在の貨幣価値にして約2億円)儲けた。さらに、「新鐘」(鐘紡の新株)で10万円儲けた。ところが、自信過剰になった丑ちゃんは、鐘紡で大敗を喫し23万円の損を出す。五・一五事件や世界的な綿価下落が直撃したのである。丑ちゃんは、株式店に返済不能な借金を抱えたため、夜逃げ同然に故郷に帰る。ただし、木谷さんは、(丑ちゃんの将来を考え)「玉の整理(手仕舞い・損失確定)だけはつけて置け」と忠告した。

4.丑ちゃん、独立する――新東株を呑む

しばらく郷里に雌伏していた丑ちゃんは、兜町の親友(映画では仲代達矢)から「ほとぼりが冷めた」という連絡を受けて上京した。サイトリを再開した丑ちゃんは、傍ら相場も始めて日産株に投資する。アメリカの金本位制停止によって、金価格が上昇し、産金株が値上がりすると睨んだのである。この目論見は見事に当たって、丑ちゃんは13万円の利益を得る。

ここで(1934年)、丑ちゃんは、木谷さんにも相談して、親友を番頭に現物店を開いて独立する。太田屋より更に小規模だったが、電話は2台引かれた。既に電話が無いと商売にならなくなっていた。

しかしこの頃、相場は全く低調だった。企業への臨時利得税が導入されるなど、経済統制も強化されつつあった。店の経営が苦しくなった丑ちゃんは、短期新東の呑み行為に手を染める。

新東株(東京株式取引所の新株)は、短期清算取引で最も取引された銘柄で、1930年代には短期清算取引の約7割を占める集中度だった。株式市場全体の代表性があり、今日の株価指数取引に類似する性格があった。ただし、株式市場が活況を呈すると取引所の収入が増えるので、新東株が値上がりし、それが更に市場を活況にするという自己回帰性があってオーバーシュートしやすかった。戦前期の株式取引は投機性が強かったとして、しばしば否定的に評価されるが、取引所株(当所株)中心の取引だったことがその一因であったと思われる。

吞み行為は、顧客の注文を取引所に出さず自己で抱える行為で、もちろんルール違反である。しかし、資金の乏しい中小証券業者では、しばしば行われていた。また、「下駄をはく」(顧客には実際よりも不利な価格で執行した旨伝えサヤを抜く)等のグレーな行為も横行していた。

丑ちゃんは、短期新東を大胆に呑んだ。すると、市場の大ガラが起こって短期新東は暴落し、丑ちゃんは二度目の破産の憂き目を見た。丑ちゃんの現物店は、閉店を余儀なくされた。

5.丑ちゃん、仕手戦に加わる

しばらくして(1935年)、丑ちゃんは、兜町に復帰した。その頃、木谷さん(富士証券の社長に就任していた)は、新鐘8)に買いを仕掛けていて、丑ちゃんも買いに加わった。すると、売り向かってくる勢力があり、即ち「仕手戦」になった。売り方の首領は、角政かどまさ〔山種9)〕だった。

仕手戦は、投資家又はそのグループが「買い方」と「売り方」に分かれて、特定の銘柄を激しく取引し、どちらが先に買い又は売りを継続出来なくなるかで、勝敗を決するものである(勝者は巨利を得、敗者は巨額の損失を被る)。戦前期は、しばしば仕手戦が行われ、ただでさえ投機的と言われた当時の株式市場にあって、特に博打的な取引(極端な株価、建玉が生じる)として、外部からは概してネガティブな評価を受けた。戦後もバブル期までは、仕手戦は存在した。

ただし、戦後と戦前では仕手戦の様相が異なる。戦後は、一部のクロウト的な投資家(是川銀蔵など)が、小型で低価格の株(中山製鋼所、宮地鉄工など)を対象に仕手戦を行った。これに対し戦前は、主要業者(山一証券など)も参加して、花形株(鐘紡、新東、日本郵船など)を対象に仕手戦が展開された。それらは、報道等によって世間の注目を集め、ある意味で「市場の華」でもあった。

木谷さんら買い方の作戦は、「逆日歩責め」だった。短期清算取引で買建てした新鐘を現引きして、実株不足に追い込むのである。実株が不足すると、売り方が空売りするための株の品貸料(逆日歩)が高騰し、売りポジションが維持困難になる。品不足になるまで現引きし続ける(踏み上げる)には、膨大な資金力を要したが、大証券社長の木谷さんにはそれが可能だった。

新鐘は値上がりを続け、仕手戦は買い方有利に推移した。さすがの角政も負けを覚悟した時、二・二六事件が勃発した10)。東株取引所は、13日間休会となった。再開した東株では、建玉は半数解け合い11)とされた。新鐘は、高値よりかなり値下がりした価格での決済となり、買い方は勝利を逃した。

6.仕手戦の結末――木谷さんの死

その後、木谷さんたちは、再び新鐘を買い上がった。翌年(1937年)に入ると、新鐘は高騰したが、中々仕手戦の勝負を決めるまでには至らなかった12)。すると、日華事変(7月)が始まった。近衛内閣は、経済の戦時体制への移行を急ぎ、繊維のような民需産業への統制は強化された。株式市場は暴落し、中でも新鐘は最も下落した。仕手戦の買い方は、巨額の損失を被り、それに加わっていた丑ちゃんには、数十万円の借金が残った。

翌年、木谷さん〔太田収〕は自殺した。会社及び関係者に損害を被らせた責任を感じてのことと言われた。丑ちゃんは、大きな衝撃を受け、悲嘆に暮れた。

後世、経済史家からは、「東京帝大出の太田収が、…新鐘紡株の買い占めに走ったところ、…同株が暴落し、…自殺したことをどのように理解すべきか」13)と問うむきもある。この問いについては、当時の証券業者のビジネスモデルが、ディーリング(投機)+ブローカレッジであり、前者が後者を牽引していたという事情を理解する必要がある。また、株式市場も、米国のような機関投資家の市場参加が乏しいなかで、証券業者が相場を形成し、それに一般投資家が引き寄せられる関係にあったと見ることが出来る。

7.丑ちゃん、兜町に復帰する

恩人の死によって大打撃を受けた丑ちゃんは、株取引から足を洗う決意をして、再び故郷に帰る。太平洋戦争中は、ヤミ屋をして小金を貯めた丑ちゃんは、戦後、久しぶりに東京に戻る。そして、丑ちゃんは兜町を再訪して、そこで旧知の富士証券・八幡専務〔大神一おおがみはじめ〕と再会する。大神一は、同じく東京帝大出で太田収に傾倒していたその一番弟子とも言うべき人物であり、のちに山一証券の社長となる14)。

丑ちゃんは、集団取引に参加して、「平和不動産」や「三菱化成」などを取引して利益を得た。集団取引とは、戦後の取引所閉鎖中に行われた店頭取引が次第に組織化された一種の市場取引であり、東京では日証館で行われた。

1949年、東京証券取引所の再開を機に、丑ちゃんは(会員)証券会社を設立する。

8.旭ガラスの仕手戦

1950年、旭ガラス〔旭硝子〕の仕手戦が勃発した。この仕手戦は、いわゆる「ヘタ株取引」によるもので、それは新株の発行日前(権利株)の取引だった。再開後の取引所取引は、GHQの取引三原則により先物取引は禁止されていた(信用取引の導入は1951年からだった)が、権利株は発行日前は現物の受渡しが出来ないため、発行日までの数か月間、差金決済により取引が行われた。そのため、このヘタ株に株式取引の人気が集中した15)。ヘタ株取引には、IPO株と先物取引を併せたような投資妙味があったのである。

また、当時は財閥解体により、有力な大企業を分割した新株が多数発行された。旭硝子は、旧三菱化成の分割後の一社であり、将来性が大きいと見られて注目を集めた。

旭ガラスの仕手戦の買い方は、富士証券、日光〔日興〕証券など東京の数社、売り方は、角政のほか大阪の証券会社が多かった。丑ちゃんは、富士証券の八幡専務に組して買い方に加わった。仕手戦は、発行日が近づくにつれ熱気を帯び、発行株数以上の取組み高に達した。形勢は、売り方有利で決着するかに見えたが、最終盤に富士証券が強烈な買上がりを見せたため、売り方が総崩れとなり、丑ちゃんたち買い方の勝利に帰した。丑ちゃんは、この戦いで1億円以上の利益を上げた。

9.解け合いとGHQ

ところで、この旭硝子新株の取引は、取組み高が大きすぎて、発行日に現物の受渡しを行うのは不可能であり、決済は解け合いにより行われた。上述の様に、戦前には、異常な事象が発生したり、取引が過熱した場合に、しばしば解け合いは行われていた。当時は占領下であったため、GHQにその処理の了解を求めたところ、アダムス担当官から、「そんなものは証券取引の決済ではない」と拒絶された。途方に暮れた徳田証券取引委員長らは、池田蔵相を頼り、GHQのホイットニー中将に働き掛けることで、辛うじて解け合いの実施に漕ぎ着けた16)。

そうした経緯もあり、証券取引委員会は、「解け合いは我が国の悪習である。…今回を最後のものとして、今後はかかる不祥事の絶無を期する」と表明した。しかし、その後も、事実上の解け合いの事例は存在した(例えば、大証の日本製鋼所事件〔1972年3月〕など)。

思うに、解け合いは、強制的差金決済の一種である。空売りを伴うレバレッジ取引においては、時に貸株のための株式が入手困難となり、空売りの継続又は現渡しによる決済が不可能な状況に陥る。その場合には、洋の東西を問わず、強制的に差金決済をするのが常である。ただ、その差金決済が、米国では(決済の繰延べが業者―顧客間で行われているため)分散して実施される17)のに対し、日本では集合的に行われるため「解け合い」のような形態をとるのである。そのため、ことさら「解け合い」を罪悪視するよりは、市場の混乱を避けるために、強制的差金決済の様な手段も含め、どう適切に市場管理していくかが重要であるものと思われる。

10.最後の大勝負

株式市場は、朝鮮戦争ブームの後、スターリン暴落(1953年3月)を経て下落基調に転じていた。さらに、その年の秋から池田蔵相によるデフレ政策(金融引締め、1兆円予算など)が採られたが、それをいち早く察知した丑ちゃんは、角政とも組んで大量の売りを仕掛けた。結果は、買支えようとした大証券も金融引締めで力尽き、丑ちゃんたちの大勝利となった。丑ちゃんは、14億円儲けた「戦後最大の相場師」として、世間にも名前が知られるようになった。

丑ちゃんは、ひとかどの成功者となった。ところで、かつての憧れの人は、海軍軍人の未亡人として落魄した生活を送っていた。それまで身分違いだと諦めていた丑ちゃんは、ここで一大決心をして、生涯の憧れの人に結婚を申し込むが…(『大番』は、半分は主人公の女性遍歴の物語であるが、本稿の目的ではないので、その顛末は省略する)。

おわりに

『大番』は、相場師が主人公の小説であり、そこに現れた証券取引の実相は、投機的な株式取引に片寄っている面はある。ただし、一般的に「戦前の株式取引は…清算取引が中心であり、…“賭博性”、“投機性”という特質もこの制度設計に深くかかわっていた」18)と認識されている。そのため、戦前・終戦直後の株式取引を歴史として見るに当たっては、清算取引等による「投機的な」相場形成についてもきちんと評価する必要があると思われる。

『大番』に描かれた株式取引を見ると、手口としては証券業者や相場師によるものが主導的であるが、相場の落ち着きどころは、結局、経済状況や政府の経済政策又はイベントによって決せられている。つまり、株式市場が投機的と言っても、経済実態から遊離して市場の内部的モーメントだけで価格形成されていた訳ではない。

戦前の株式取引については、上述のように、清算取引中心だったことが、市場の投機性や(米市場由来の)後進性の原因であった様にしばしば論じられる。しかし、デリバティブ取引が発達した今日から見ると、「清算取引中心」を戦前期株式市場の諸悪の根源のように扱うことが、果たして妥当なのかという疑問も生じる。

『大番』は、株式市場を舞台とした良くできた英雄譚である。そして、そこに期せずして表れた証券取引の実相は、証券取引の歴史を見る上からも汲み取るべき点も多いのではないかと思われる。

注釈

  1. 1) 最近、Amazon Prime Videoでの配信も開始された。
  2. 2) それら取引は、別名「坂本市場」と呼ばれた。坂本市場では、差金決済取引や取引所類似施設が営まれることもあり、取引所との競争又は取締りの対象となった。
  3. 3) 「合百」という呼称は、米市場の場外で百文掛けて行われたことに由来する(別名「百文賭金」)。
  4. 4) 証券界における初の東京帝大出身者と言われ、のち山一証券の社長になる。
  5. 5) 木谷さんからは、丑之助という名前は“Bull”に通じる株屋には良い名前だと励まされる。
  6. 6) 才取は、独立性の高いビジネスであるが、同時に履行の確保など相互の信頼性も重要だったため、かなり初期から強力な同業者組合(公株会、同志会、実栄会など)が存在した。それが、のちの実栄証券の母体となった。
  7. 7) 短期清算取引は、原則は実物取引と同じ決済期限(翌日)であったが、1か月まで繰延べでき、さらに期限内にバイカイ(クロス売買)をすることにより、実質無期限に繰延べることが出来た。多くの取引は、繰延べしている間に反対売買をして差金決済により手仕舞うが、株の現引きや現渡しによって決済することも出来た。総じて、戦後の信用取引に似ているが、決済の繰延べを証券業者と顧客の間ではなく、取引所で行うところが異なる。
  8. 8) 当時の株式市場では、親株(例えば鐘紡)よりも新株(新鐘)の方が好んで取引された。旧商法では、株式の分割払込みが認められており、1/4以上払い込まれた株式は流通可能だった。新株は、価格は親株の概ね1/4であるが、親株とだいたい同幅の価格変動をしてレバレッジが効いていたことから投資妙味があった。
  9. 9) 山崎種二。山種証券の創業者。米問屋から米相場に加わり、米の現物を抱えての売りを得意とした。その後、株式市場に進出し、「売り」に強い常勝将軍と呼ばれた。
  10. 10) 史実としても、山種が仕手戦の売りが続かなくなり、大負けで手仕舞いしようとした時に二・二六事件が起こり、損失を免れた。兜町では、山種が二・二六事件の将校を支援していたという風説が流れた。
  11. 11) 市場の状況から正規の手段では決済できない場合に、取引所が裁定した価格で差金決済することにより、取引を終結させる方法。市場を正常化するための一種の非常手段である。異常な事象発生により取引所が立会中止になり、その再開後にはしばしば解け合いが行われた。関東大震災の時は一月半立会中止の後、総解け合い、金輸出再禁止では4日立会中止の後、半数解け合いとなった。
  12. 12) 木谷さん側は、買った(現引き)株を担保に資金を調達して更に株を買うことを繰り返したが、その際、金融機関とは担保に入れた株を他に貸さない約束をしていた。ところが、一部の保険会社がそれに背き、密かに売り方に株を貸していたため、木谷さん側がいくら買い増しても実株不足にならず仕手戦は長引いた。
  13. 13) 石井寛治「再考:戦前期日本の直接金融と間接金融」『金融研究』日本銀行金融研究所、2012年1月号。
  14. 14) 大神一は、1954年から64年まで山一証券の社長を務め、その強気一辺倒の事業運営が1965年の山一危機を招いたと言われている。鈴木隆著『滅びの遺伝子―山一証券興亡百年史』(2005年 文藝春秋)によれば、山一証券の前身の小池商店は、リスクを取らずに儲けるビジネスモデルだったが、その社風を太田収が突然変異させた。その遺伝子(東大偏重、家父長制的社風)が、その後も受け継がれ、最終的に1997年の山一証券の破綻に至ったとしている。
  15. 15) ヘタ株取引は、旭硝子仕手戦の後も盛んに行われた。しかし、1953年、朝鮮戦争後の株価下落により、ヘタ株専門の証券業者が相次いで破綻、廃業し、株式市場を動揺させた(「ヘタ株事件」)。このため、東京証券業協会は、会員のヘタ株取引自粛を申し合わせた。
  16. 16) この時の証券取引委員会の不手際振りを見た高橋要・大証理事会議長は、「証券取引委員会もこれでおしまいだな…と思った」と述べている(『証券外史』(1971年 東洋経済) P195)。証券取引委員会は、講和発効後の1952年に廃止された。
  17. 17) 米国の信用取引では、貸株用の株式が不足した場合には、業者が顧客の売り建玉を強制決済することが出来る約款になっている(日本の一般信用取引でも、業者による同様の措置が規定されている)。
  18. 18) 石井寛治 前掲(注13)論文