〔JSRI時事エッセイ 鈴懸の木の下〕株主と従業員への支払いをめぐる時間軸
頭士 奈加子(埼玉大学経済学部准教授/当研究所客員研究員)
今年に入り、企業の支払いをめぐる数字が相次いで目に留まった。2026年1月4日付日本経済新聞電子版は、3月期決算の上場企業の配当総額が2026年3月期に初めて20兆円を超える見通しだと報じた。2026年6月23日付同紙によれば、2026年1~5月に設定された自社株取得枠も16.2兆円と、この期間として過去最高だった。一方、2026年4月29日付同紙が報じた採用計画調査では、2026年度の大卒初任給を30万円以上とする企業が245社に増え、回答企業の大卒初任給の平均額も過去最高を更新した。連合が公表した2026春闘の最終回答集計結果によれば、基本給を底上げするベースアップと定期昇給を合わせた賃上げ率も5.01%と、3年連続で5%を上回った。一見すると、株主にも従業員にも支払いが増えているようにみえる。
会社が誰に、いつ、いくら払うのかは、コーポレートファイナンスを研究する者として関心事の一つである。前述の数字に関して言えば、株主と従業員のどちらが多く受け取ったかももちろん重要な論点だが、ここでは受け取りの時期に注目したい。配当や自社株買いは株主への現時点の利益還元であり、内部留保と再投資は将来の価値創造に資金を充てる選択である。その将来の収益を期待するのは株主だけではない。従業員も、留保された資金が再投資されて収益を生み、より高い賃金をもたらすことを期待し得る。賃金は労働への対価として、現在支払う部分と、勤続後期の昇給として後々支払う部分がある。会計上の位置づけは異なっても、いずれも企業が生み出す付加価値やキャッシュフローを、誰に、どの時点で分配するかに関わる。今年の報道を並べると、資本市場と労働市場の双方で、企業に求められる支払いの時期や形が変わりつつあるようにみえる。
資本市場では、株主還元が高い水準に達する中で、投資家の関心はどこへ向かうのか。2026年6月10日付日本経済新聞電子版が報じた三菱UFJ信託銀行の調査結果によれば、機関投資家による株主提案51社139議案のうち、最も件数の多い議案は、株主還元に関する議案で41件に上った。しかし、前年からの変化で見ると、株主還元に関する議案は10件減っており、他のテーマと比べて減少幅は最大であった。一方、役員の選解任やガバナンスに関する議案は増えた。同記事は、一過性の還元だけでは株価上昇を実現しにくくなり、投資家の関心が事業ポートフォリオや経営陣にまで及んでいると説明する。これは、投資家が短期志向から長期志向へ転じたことを直ちに意味しない。ただ、関心の対象が現在の還元額だけでなく、留保資金を何に投じ、どのような収益を生み、利益をどこまで株主に還元するかという資本配分全体へ広がっているとは言えそうである。東京証券取引所も2026年4月28日、「資本コストや株価を意識した経営」に関する要請を更新し、「経営資源の適切な配分」を前面に掲げている。
ペイアウト政策の理論は、この変化を考える補助線になる。有望な投資先がないのに資金を社内に残せば、経営者の浪費や非効率な投資を招き得る。余剰資金を配当や自社株買いで株主に還元することには、経営者を規律付ける便益がある。他方、日本企業の長期雇用を背景とした年功的な賃金体系を後払いの暗黙の契約とみれば、既存従業員は若年期に相対的に低い賃金を受け入れる代わりに、勤続後期の昇給や雇用の継続を期待してきた。将来の昇給は通常、貸借対照表上の債務にはならないが、企業と従業員の長期的な関係を支える暗黙の約束の一部である。そして、その約束を果たすためには企業が存続し、支払い能力を保ち続ける必要がある。これには、資金を内部留保して再投資に充てるだけでなく、将来の不確実性や投資機会を逃さないための予備的な動機のために内部留保するという考え方もある。厄介なのは、社内に残した資金が、こうした将来のために必要なものなのか、それとも有望な使い道のない余剰なのかを、外から見分けにくいことである。株主還元と内部留保のどちらを増やせばよいということは、一概に言えない。企業は、資金を社内に残すことで生じる経営者と株主との間の緊張と、社外に支払うことで事業への再投資や従業員との暗黙の契約を損なう可能性の双方を調整し、その線引きを説明しなければならない。
労働市場で起きていることは、単なる賃上げに留まらないように思う。初任給は、採用市場でこれから働き始める人に提示する入口の価格である。春闘の賃上げ率は、既存従業員を含む現在の賃金改定を示す。両者は同じではない。その既存従業員の賃金を形作ってきた年功賃金は、消えたわけではない。厚生労働省が公表した「令和7年版労働経済の分析」(労働経済白書)では、生え抜き社員の賃金プロファイルに年功的な特徴を確認しつつも、1993年以降、長期的にフラット化してきたと整理している。とはいえ、同省の令和7年賃金構造基本統計調査によると、男性の賃金カーブは55~59歳でピークを迎え、その水準は20歳代前半の1.8倍に近い(女性はこれより緩やかである)。では、賃金はどう変わってきたのか。中井(2025)によれば、直近にかけて賃金水準は全体として切り上がっているが、40~54歳の層はそこから外れ、プロファイルのピーク年齢も後ろにずれてきた。同論文は、こうした変化から、年功的な賃金体系の中で、特に中高年層の人件費負担が減らされてきたことがうかがえるとしている。もっとも、人件費を抑える動きが続いているわけでもない。同論文は、デフレからの脱却と人手不足が続く中で、フラット化や賞与・退職金の縮小といった長年の流れに揺り戻しがみられるとも指摘している。
これらの労働市場のデータは、次のように読み替えることもできよう。企業は、従業員への支払いのうち後回しにする部分を、30年あまりかけて少しずつ圧縮してきた。それでも後払いについての暗黙の約束は、消えたのではなく、目減りしながら残っている。これは貸借対照表には載らないが、従業員が若年期に生産性を下回る賃金を受け入れた見返りとして、後年に受け取ることを期待していた暗黙の未払い分である。その残高が残っているからこそ、後払いを待つ人がいる。しかし、その残高は目減りしている。そのうえ、入口の価格が上がっても、その分が待つ人の処遇改善として現れているようにはみえない。後払いを待つ人に、このまま待ち続けてよいのかという疑問が生じ得る。
後払いを待つ人の存在は、賃金制度が変化する中で従業員間の利害の不一致を招く可能性がある。新たに入社する人には、少なくとも原理的には、高い初任給と緩やかな昇給が初めから一組の条件として提示され得る。これに対し、旧来の後払い型の年功賃金の下で若年期を過ごした既存従業員は、高い初任給の恩恵を受けないまま、後年に受け取ると期待していた賃金が縮小する可能性さえ危惧される。2026年7月4日付日本経済新聞電子版に掲載されたJob総研の調査では、回答者302人のうち、新卒の方が高給なら転職を検討すると答えた人が72.2%に上り、30代や勤続8~15年の層で初任給引き上げに慎重な回答が相対的に多かった。小規模な意識調査であり一般化はできないが、賃金制度の変化に対する違和感が生じ得ることはうかがえる。
そう考えると、株主向けと従業員向け、二つの方向で相次いだ今年の記録は、別々の紙面の出来事ではなくなる。株主還元の拡大は、年功賃金の後払いの原資となってきた内部留保と同じキャッシュフローの取り合いになり得る。また、初任給の上昇は、後払いの順番を手前に組み替え得る。いずれも金額の景気の良い話にみえて、「いつ払うか」という約束の組み替えの一場面なのかもしれない。もっとも、これは一つの読み方にすぎない。観察できているのは、株主への支払いの拡大と、入口の価格の上昇と、以前から続く賃金カーブのフラット化が、同じ時期に併存しているという事実までである。初任給に合わせて既存従業員の賃金も引き上げれば不一致は小さくなるが、個々の企業がどう対応したかまでは、公表統計からは見えてこない。それでも、資本市場では資金をいつ何に使うかが、労働市場では賃金をいつ払うかが、同じ時期に問われていることは確かだろう。
株主還元を増やし、初任給も引き上げた企業では、再投資、現在の賃金、将来の昇給はどのように組み合わされているのか。賃金カーブ全体を引き上げているのか、入口だけを高くして将来の傾きを緩やかにしているのか。好業績によってすべてを増やせる企業もあれば、調整が生じる企業もあるだろう。継続性が意識されやすい配当と、比較的機動的な自社株買いでは、調整の仕方も異なるかもしれない。例えば、減配を避けたい企業ほど、調整は目に見えにくい賃金カーブの傾きに現れる、ということはあり得るだろうか。企業ごとのペイアウト、投資、年齢・勤続年数別の賃金、雇用と離職を重ねてみなければ、その全体像は見えてこない。それでも、会社が誰に、いつ、いくら払うのかという問いに照らせば、今年動いたのは「いくら」よりも、むしろ「いつ」なのかもしれない。
(参考文献)
- 中井雅之(2025)「統計データから見る賃金の現状と賃金制度の変化」『日本労働研究雑誌』独立行政法人労働政策研究・研修機構、12月号(No. 785)、4-18頁。