歴代証券局長口述記録を読む(その1)
森本学(当研究所理事長)
はじめに
日本証券経済研究所は、本年6月より、デジタルアーカイブにおいて「歴代証券局長口述記録」の掲載を開始した(現在は12人分を掲載)。これらの記録は、大蔵省・財政金融研究所(現財務省総合政策研究所)及びその前身が作成していた大蔵省の歴代次官、局長のオーラルヒストリーの一部である。当研究所は、情報公開請求手続により、そのうち歴代証券局長のものを入手し公開することとした。
この「歴代証券局長口述記録」は、証券行政や証券史を理解する上で有用な基礎資料であり、今後、他の資料、記録と照合すること等により、証券研究への活用が期待される。ただ、現在は、本記録の存在及びどのような内容のものなのかは、余り知られていない。そこで、本稿では、各局長の証言の中から筆者が注目すべき又は貴重と感じた部分をピックアップするとともに、背景説明を加えることにより、本記録の紹介を試みることとしたい(太字部分が口述記録の原文。明らかな誤字のみ改めた。)。
1.吉本宏局長(1979年6月~81年6月)
吉本宏氏(1951年入省)の大蔵省における後半のキャリアは、理財局が長く、同局資金課課長補佐(3年)、国債課長、総務課長、次長及び(証券局長の後)理財局長を歴任している。そのため、理財畑の人と見ることができる。吉本宏氏のキャリアの中では、田中角栄総理の総理秘書官を務めたことが特筆される。
吉本宏氏は、闊達にして剛胆な人物であり、理非曲直に厳しかったと言われる。
⑴ 中期国債ファンドの導入
中期国債ファンドは、1980年1月から販売が開始され、折からの市場金利上昇という環境の下、銀行預金に比べて相当有利な商品となって爆発的な人気を呼んだ。規制金利体系に風穴を開け、金利自由化を先取りした画期的な商品だった。
アメリカでは、その少し前にMMFが登場し、やはり市場金利の上昇に伴って人気商品となり、預金から大規模な資金シフトを起こしていた。このMMFに類似する中期国債ファンドに対しては、日本の銀行界は強い反対の立場をとり、実際に中期国債ファンドの販売開始直前には、銀行界の激しい反対運動が展開された。にも拘らず、中期国債ファンドは証券局から商品認可されたことから、その導入の経緯について、証券局は銀行局(及び銀行界)に良く相談しなかったのではないか、とか、甚だしきに至っては、証券局の担当補佐が銀行局をダマして導入したという憶測まで存在した。
吉本局長の証言を読むと、中期国債ファンドの検討は、「これが漏れると、物議を醸すおそれもある」ので、「非常に秘密裏にやった」。そして、「銀行局との折衝が一番問題」であり、「銀行局の立場としては、…かなり強い反対があった」と述べている。さらに、「課長同士の話でもなかなか決着がつきませんで、結局米里銀行局長と私の話し合いになった」としている。
その銀行局との話合いの内容について、吉本局長は、「短期金融市場では、銀行、証券、相乗りでやってもいいんではないか…という議論をした」、「幸い、当時の米里、宮本〔保孝審議官〕両氏もそれに理解を示してくれまして、何とか実現できた」と述べている。
ただし、話が違った部分も若干あった模様で、吉本局長は、「銀行局との話合いでは、金額3,000億円程度1)ということで話をした記憶があります」、「その金額の限度なるものは破られているわけでありまして、その辺銀行局としてはちょっと心外の点もあったかと思います」と述べている。実際には、中期国債ファンドの残高は、導入の翌年には1兆円を超え、4年余りで6兆円弱に達した。
なお、(野村証券が持ち込んだ)中期国債ファンドという商品企画が大蔵省を通った理由が、当時、省内では誰も反対できない「国債円滑消化」という大義名分に加えて、「短期金融市場相乗り論」だったことは興味深い。短期金融市場の整備については、79年4月からCDが発行され、80年頃から海外CD、CPの検討がなされていて、そこでは「銀証相乗り論」が有力ではあった。しかし、中期国債ファンドに関する銀行、証券両業界の最大の争点は、「証券会社が預金類似商品を持つことの是非」だったのであり、その意味で、「短期金融市場相乗り論」は、ややズレた理由付けだった感は免れない。
総じて、中期国債ファンドに関する大蔵省内の検討経緯を見ると、局長間の折衝も行われており、証券局は一応ちゃんと銀行局に協議している。一方で、銀行界は「不意打ち」という印象2)を持っており、当時会長行だった三井銀行は他の大手行から、中期国債ファンド導入を許した失態を厳しく責められている3)。中期国債ファンドについては、銀行局から然るべく会長行に伝わっていたのであろうが、機密保持が厳しかったこと及びこの問題のインパクトを軽視したことなどから、銀行界において検討過程で十分な情報共有が為されなかった、というのが実態だったのではないかと思われる。
⑵ 誠備グループ事件
誠備グループ事件は、「兜町の風雲児」加藤暠が主宰する投資グループによる大規模な仕手戦の事案である。加藤暠は、「四社の管理相場では、四社の上顧客だけが儲かり、個人投資家は損をさせられている」として、「個人投資家中心の株式市場への変革」を掲げ、多くの資産家、政治家などを投資グループに巻き込んだ。誠備グループの活動は、1980年の宮地鉄工株の仕手戦でピークに達した。これに対して、東証は何度か仕手戦の行き過ぎを抑えるための措置をとった。ところが、81年2月に加藤暠が東京地検に脱税容疑で逮捕されるという意外な展開により、誠備グループは一挙に崩壊した。
このような誠備グループを巡る顛末について、加藤暠の伝記4)などでは、誠備グループに相場を席捲されて危機感を持った四社が、大蔵省(証券局、国税庁)、東証と加藤包囲網を敷いた結果だとしている。
吉本局長の証言を読むと、誠備グループの活動を「『仕手株の乱舞』という問題」と表現している。そして、「東京証券取引所では、…かなりいろいろ手を打っていただいた」と述べており、誠備仕手戦への対応は東証に委せていたことが覗われる。
むしろ、81年2月に「誠備グループの主宰者が脱税事犯で東京地検に逮捕されるという事件が起きて」、「『誠備株』と称するものが非常に急落」し、「更に…大証信が行き詰まるという問題が出て」、「国会等でもいろいろ取り上げられました」と、誠備グループ崩壊後について多く述懐している。
そして、「私どもとしては、…何とか再発防止の措置をとらなければいけない」状況だったとしている。そして、「投資顧問法をつくったらどうかという議論」については、「街の投資顧問を登録制など規制の対象にするのは、…規制の実効性を上げられるかどうか疑問」であり、「(結局問題は)証券会社の受注のあり方に帰着するとして、…(一括受注禁止という)措置をとった」と述べている。
全体として、証券局と東証に加藤つぶしまでの意図があった様には見えず5)、検察も別の目的〔誠備顧客の政治家、有名人の裏金の把握〕で加藤暠を脱税で立件したと言われている。結局、この事件は、裁判で加藤暠の脱税は無罪(顧客の脱税幇助のみ有罪)となり、また加藤暠は顧客について口を割らなかったため、それ以上の展開は無かった。
⑶ 国債の窓販・ディーリング問題
戦後、銀行による公共債の取扱い(募集の取扱い等)は行われていなかった。銀行の証券業務禁止を定めた証取法65条も、公共債については例外として銀行の取扱いを認めていた(ただし、銀行法には銀行の行う証券業務についての規定は無かった)。
銀行が国債の募集の取扱い(窓販)を行うべきかどうかは、1965年の国債発行再開時から議論があったが、当時は国債の発行量も少なく時期尚早として具体化に至らなかった(当時、国債は基本的にシ団引受により発行されており、銀行はシ団の主要メンバーとして割当て消化していた)。
ところが、1980年になると、永年の懸案であった銀行法(昭和2年制定のいわゆるカタカナ法だった)の全面改正が行われることになり、その中で銀行の行う証券業務を銀行法にどう規定するかが改めて問題となった。一方、国債市場では、1975年からいわゆる国債の大量発行が始まり、さらに79年にはロクイチ国債が暴落(金利は急騰)したため、国債の安定消化が喫緊の課題となっていた。このため、銀行の国債窓販・ディーリング参入には強い追い風が吹いていた。
これに対し、証券界は銀証業務分離の根幹に触れる問題として強い反対姿勢をとっていたことから、この問題に対する大蔵省の方針策定は極めて難しいものだった6)。結局、大蔵省の方針はいわゆる「三原則」として纏められた。①銀行の公共債業務について銀行法に規定をおく、②同業務は証取法上の認可を要する、③実施については今後検討する、の3本柱である。
この三原則は、一般には80年12月に大蔵省の省議決定とされているが、吉本局長によれば、「私と米里銀行局長と話し合って決めた」ものであり、その時期は「8月20日」とされている。さらに、「正式の省議というような手続はとりませんで…たまたま田中次官と二人になった際、…(三原則について)話した」ところ、次官は、『そういうことでみんなの了承が得られるならいいがなあ』という反応だった。
吉本局長としては、「この話を何とか証券界に納得してもらわなきゃいけない。しかし、当時の証券業界の雰囲気としては非常に抵抗が強」かった。そこで、9月に入ってから、まず瀬川美能留さん〔野村証券相談役(前会長)〕に説明に行った。すると瀬川さんは、その場では『わかりました』とだけ答えた。そして翌日、『大蔵省がそういう方針であれば、それですすめて頂いて結構である。ただし、北裏協会長〔野村証券会長、日証協会長〕はいろいろの立場もあろうから、その辺は北裏さんには話をしないでほしい』と言われた。それで、「北裏さんには、もうちょっと様子を見ようということで、…北裏さんにこの三原則の話をしたのはかなり後であります」。
「その後、証券業界は大がかりな反対運動を展開」した。10月半ばに、日証協(北裏協会長)は窓販・ディーリングに強く反対する意見書をまとめ、国会議員回りをするなど「相当積極的な反対運動」を行った。11月には、東京地区の証券界が反対決起集会を開いている。このため、さしも剛胆な吉本局長も、「私もひところは、この問題について、あまり業界が反対しているものを無理に強行するのはどうだろうかというようなことで、かなり取扱いに苦慮した」と述懐している。
しかし、「その後いろいろやりとりがありましたが、12月に入って証券界としても、当局の考え方即ち三原則の線でやることはやむを得ないというような話になってきた」。ということ7)で、意外に短期間で収束している(銀行業界は、窓販以外の部分も含めて銀行法改正に執拗に反対し、翌年4月の自民党六者協議でようやく決着した)。国債窓販問題は、当時、銀証両業界を挙げた全面衝突の観を呈していたが、証券界首脳は早期に大蔵省方針を容認していたという証言は興味深い8)。
最終決着において、三原則の③(実施について今後検討)については、いわゆる「三人委員会」(森永貞一郎・前日銀総裁、佐々木直・金制調会長、河野通一・証取審会長)に諮ることになった〔六者協議合意事項〕。その間の事情について吉本局長は、「募集の取扱いについては、…もともと、国債のシ団契約で…認められておる9)わけであって、これに認可をかけるのはおかしい」という銀行界の主張は、「心情的には私どももよくわかりますし、…内心忸怩たるものもありました」。しかし、「三原則は動かしたくないと、これは断りました10)。その代案として出した11)のが、三人委員会に諮るということであります。三人委員会はそういう意味で私の発案であります」と述べている。
最後に、吉本局長自身が国債の窓販をどう思っていたかについて、「非常に正直に申しますと、私は理財局の次長のときに、窓販を銀行にやらせてもいいじゃないかという話を証券局に持ち込んだことがある」、「ただ、…法律的に、旧法ではやっぱりきちっとしていないじゃないかという議論もあり、…法律上の措置はやっぱりきちっとしておかざるを得ないんじゃないかという気持ちはありました」と述べている。
2.禿河徹映局長(1981年6月~1982年6月)
禿河徹映氏は1952年に入省し、若手補佐のときに証券行政(理財局証券一課など)を経験したが、その後は、官房(大臣秘書官、秘書課長)、主計局(主計官、次長)など大蔵省の本流を歩んだ。証券局長に就任したとき、証券行政については「素人だった」と述べている。
禿河氏は、恬淡として洒脱な人物であり、行政手法としては、調整・バランス型と言うことができる。証券局長の後、内閣審議室長、内閣府次長を歴任し、退官後は日証協副会長(1989年7月~93年6月)も務めた。
⑴ 国債窓販問題(三人委員会)
銀行の国債窓販・ディーリング問題については、1981年5月に銀行法及び証取法の改正法が成立した。そして、その実施について検討する場とされていた三人委員会(蔵相の私的諮問機関)は、同年10月に審議を開始した〔事務局は大臣官房〕。三人委員会の争点は、①銀行窓販の開始時期と範囲(対象証券)、②ディーリングの取扱い、だった。
「証券界は窓販の実施時期はできるだけ遅く…大体(昭和)60年(1985年)以降にしてほしい」、「対象の証券は、長期利付国債だけでいいじゃないか」ということを「非常に強く主張して」いた。実施時期については、当時予定されていたグリーンカード12)の導入(1984年1月)以後にすること、対象証券については、中期国債や割引国債は証券界が殆ど消化していること、が理由だった。
そのほかに、証券界は国債に関連する業務の「イコールフッティングの確立ということを要望」していた。国債に関連するサービスが銀行に劣ることで、証券会社が国債販売の競争上不利になることを避けようとするものである。具体的には、国債関係の預り金に対する付利と国債担保金融を要望していた。
三人委員会は、その後、合計9回にわたり精力的に審議を行い、翌年(82年)3月に大蔵大臣に意見を報告した。その結論は、①窓販開始は、83年4月から、対象証券は長期国債とする、②中期国債、割引国債の窓販及びディーリングについては、今後さらに検討する、というものだった。
実施時期については、「委員会の中におきましてはもう少し早くてもいいんじゃないか」という意見があったことからすれば、やや遅めの結論になったと言える。一方、イコールフッティングについては、「委員会はこれについては関知せず、行政サイドからしかるべくやるべきであるという意見」だった。これに証券界は、「ある意味で不満があった」ことから、以後、この問題は再燃することになる。
⑵ 海外CD、CPの取扱い
海外で発行されたCD及びCP(「海外CD、CP」)は、1980年12月の改正外為法の施行により、日本の投資家は自由に取得できるようになっていたが、業者が取扱ったときの業法上の位置付けが定まっていなかった。もし、海外CD、CPが証取法上の「有価証券」であれば、証券会社の専業となり銀行は取扱えないことになる。しかし大蔵省は、「海外CD、CPの取り扱いを銀行、証券相乗りの形で認めよう」と考えていた13)。
先の(81年)証取法改正では、銀行の公共債取扱いのほかに、証券会社の兼業の範囲を拡大していた。証券会社の兼業について「有価証券に関連する業務」とされていた証取法の規定を、「有価証券に関連する業務その他の証券業に関連する業務」と広げていたのである。そしてそれは、海外CD、CPを銀証相乗りにすることを念頭に置いたものだった。
その「海外CD、CPの取扱いルール」は、82年3月に纏められ公表された〔当時、円安に振れていた為替相場への配慮から実施は先送りされ、84年4月からとなった〕。海外CD、CPは証取法上の有価証券とはせず14)、銀行は付随業務、証券会社は兼業で行うという、その後も続く新しい金融商品に係る銀証相乗りの型15)がこの時定まった。
また、ルールの内容について、「銀行界では、海外CD、CPの取扱いが国内のCPの発行問題に将来つながりかねない」と懸念したため、かなり紛糾した。結局、「本邦系の現地法人の発行するCD、CPは、当面取扱いを見合わせ」るなどの制限が付された。しかし、それについては、「宮本保孝銀行局長とは…大体1年後にはやろうじゃないか…と話をつけた」と述べており、銀行局、証券局とも短期金融市場の整備は早急に進めようという意欲が感じられる。
⑶ 東証会員権問題の始まり
外国証券会社の日本への進出は、82年3月末に5社6支店(駐在員事務所は71社)だったが、同年5月にソロモン・ブラザースが東京支店を開設するなど、その進出機運はようやく高まりつつあった。一方、野村証券の米国現地法人は、81年7月にNYSEの会員権を取得した。そうした中で、証券取引所を含む日本のマーケットが、外国証券会社に対して十分開放的であるか、が問われるようになった。
まず問題になったのが、「手数料の実費払戻し」制度だった。東証の非会員証券会社が会員に注文を出す際に払う手数料は一般料率の50%と定められていた(受託契約準則)が、そのうち23%は実費として払戻しても良い(理事会決議)とされていた。ただし、この払戻しは、国内証券会社だけが対象だった16)。
この点については、「メリル・リンチがかねて要望を出して」いたため、東証は規則改正をして外国証券会社も対象にした(82年1月)。
「外国証券会社が東証の会員になれない」というより本質的な問題についても、かねがね「メリル・リンチなどの外国証券業者が、相互主義の建前から加入の道を開いてくれ」と申し入れていた。東証は定款で、会員の資格を「日本の法律により設立した証券会社」に限定し、外国証券会社等を排除17)していた。なお、「法制面では、(昭和)46年(1971年)の外証法を定めたときに、あわせて証取法の90条を改正して、免許を受けた外国証券会社についても会員権取得の道を開い」ていた18)。この東証の閉鎖性については、米国議会でも問題になり、「日米財界人会議のときに、リーガン財務長官から瀬川野村証券相談役に話が」あった。
「これに対して、東証も同じことですが、私どもも、やはり証券市場の国際化というものは時の流れであって、門戸をいつまでも閉ざすことは不可能であろうし、得策でもない」と考えた。そして、「現実に加入するかどうかという問題は、会員数、それから会員権取得費というふうな問題も含めてそのときに検討すればいいんじゃないか…定款上の制約はできるだけ早く撤廃した方がいいという結論」になった。その後、「(昭和)57年4月に定款の改正が行われ、相互主義の原則のもとに、外国証券業者にも門戸を開放」した。
3.水野繁局長(1982年6月~1983年6月)
水野繁氏は、1953年(旧制)に入省した。3年間証券局の補佐を務め、その後、証取審担当の参事官を経験しているが、証券局では「課長レベルの…仕事というのはやったことがない」。その間、理財局で課長、総務課長を務めており、証券畑と言えるかどうかは微妙である。なお、証券局補佐時代は昭和40年証券不況の前後で、「1年近くは…茅場町近くの旅館か何か…に入って、法律と省令までずっと」やっていたと述べている。
水野氏は、人当たりがソフトな人物であり、証券行政については「弾力的にやっていったらいい」と考えていたと述べている。
⑴ 国債窓販問題(再開三人委員会)
国債窓販問題については、中期国債、割引国債の窓販とディーリングが「今後さらに検討」とされ残っていた。それらの問題を審議するため、三人委員会は1982年7月に再開され、83年5月に審議結果を報告した。結論は、中期国債、割引国債の窓販は83年10月から、銀行の国債ディーリングは84年4月から実施というものだった。
三人委員会の審議の過程では、銀行、証券の対立は極めて厳しく(証券界はディーリングを証券業務の本丸と位置付けていた)、「到底まとまらないよという感じさえあった」。「一時は証券局の方は延ばした方がありがたい…銀行局も御結論をお出しいただくのを延ばしていただいた方がいいのでは」という意向もあった。しかし、「特に森永さんが、これはいつまで延ばしたって同じなんだ…森永さん、あまりはっきりいつも物事をお決めにならないのですけれども、我々が『延ばすという意見もありますが』と申し上げて」も、「『遅くとも58年5月までに終わらせてしまえ』と、これだけは随分はっきりおっしゃった」。
国債窓販問題に関する銀行、証券両業界の長引く執拗な対立(三原則から数えて三度目になる)に周囲は辟易としており、当時、「とにかく早く終わりにしろ」という雰囲気があったことを物語っている19)。
また、銀証の調整に大蔵省の官房(次官、官房長)がかなり関与しているのが、この時期の特徴で、先述の田中次官も銀行首脳と相当会談・接触している20)。水野局長は、「業界首脳からの申し入れを、むしろちゃんと…松下次官と吉野官房長が受けられてやってくださいましたので、これが非常に助かった」と述べている。
⑵ 国債窓販問題(イコールフッティング)
①利金ファンド
「当時、国債をめぐる公共債の利払いと償還のために、店によっては相当混雑するところが出て」いた。このことが、償還金と利息の受け皿となるファンドの創設を証券界が求める根拠となっていた。
この話を聞いた「当時の渡辺大蔵大臣…大蔵委員会のメンバーが野村の渋谷支店に行きまして、…相当混んでるので、何とかしないと…いうふうな話」も出た。「もっとも銀行界に言わせると、あれはやらせだ…来ているお客さんの相当部分は、証券会社のセールスマン」だという陰口もあった。
証券界としては受け皿に中期国債ファンドを使いたかったが、それは、「どうも預金類似だよといって反感が強すぎ」て難しかった21)。そこで、「利金ファンド」という商品が創設された(82年11月)。利金ファンドは、購入単位が1円、30日以内の解約にのみ手数料が掛かるという商品性22)だった。
「ただし、これで両方が満足したかというと、利金ファンド創設ということで銀行界は不満を抱きましたし、中国ファンドが利用できない…ということでもって、証券界も不満だった」。
②国債担保貸付
国債担保貸付(正式には公社債担保貸付業務)は、証券会社の兼業として1983年6月に開始された。貸付の形式は証書貸付とされたが、銀証間で問題となったのはこの貸付の形式についてだった。
証券界は、約款による極度貸付(国債担保の範囲内で自動的に貸付ける方式)を要望した。これに対して銀行界は、「決済機能を侵すものだから、とてもじゃないけどこれは反対というので、これは相当な戦争になりました」。一方、「植谷証券業協会長は(極度貸付は)三人委員会の第二次結論を円滑に処理するための条件だ…さもなければ一歩も引かない」と言っていた。証券界の要望は、「銀行が国債担保貸付の総合口座を、当時つくろうかな」という動きがあり、それを「証券が先行してやっちゃう」ことになるのだった。
水野局長は、「証書貸付でスタートし、極度貸付については将来検討」という案を証券界に示したが、「業界の要望が強いので私を飛び越えまして、次官、官房長に直接お出ましいただき…業界首脳の植谷さんと田淵さんとも吉野官房長は…相当やり合いをやってくれまし」た。「それで(極度貸付については)59年6月にもう1回検討するという…次官裁定ということになった」。
⑶ 時価発行増資問題
時価発行増資を含む時価ファイナンスは、当時、発行会社によって「資金コストが低い資金調達手段」と見なされていたこともあって、かねて「利益配分が十分でない」などいわゆる「食い逃げ批判」がなされていた23)。これに対しては、累次にわたり引受証券会社の自主ルール(利益配分ルールなど)で対応が図られてきた。
しかし、1981年に時価発行による資金調達が過去最高を記録(第二次ブーム)した後、翌82年に第二次オイルショック後の株価低迷により、それら時価発行した銘柄が大幅に下落(いわゆる「公募価格割れ」)した。この問題は、国会でも取り上げられ、82年6月からは証取審で審議が行われて報告書(「時価発行公募増資の諸問題とその改善策について(中間報告)」)がまとめられた(82年11月)。
その検討に当たって、「私たちが考えましたのは、今まで証券局というのは、ややもすれば証券業界、それから銀行の意見というのは相当程度聞いていたわけですけれども、発行者の意見を直接聞くチャンスというのはな」かった。局内には、「証券局というのは、証券市場局でもあるべきだ」という主張もあった。そこで、「発行会社に直接接触したいということを経団連に申し入れて、経団連は…『産業証券懇談会』というのをつくって…相当活発な意見を交わし」た。
そうした産業界との率直な意見交換もあってか、証取審の報告書は、かなり具体的、実務的な改善策を折り込んだものとなった。①「公募価格割れが生じている場合には、それが自社の利益計画を達成していないこと等発行企業の個別事情によるときは、次回の時価発行公募増資を当分の間(例えば2年ぐらい)自粛することが適当である」、②「原則として親引けは廃止する」、③「公募株の金融機関、事業法人への募集・販売は一層縮小(原則として30%以下)するよう努力する」などである(水野局長は、「企業の責任者の方々から腹蔵のない意見」を聞き、「例えば…親引け原則廃止」について、「我々、親引けを禁止して本当に大丈夫なのですかと、念を押して、『いいんだよ』…最後はそういう結論になりました」とその間の折衝について述べている。)。
この証取審の報告書を受けて、引受証券会社の自主ルールは改訂された(83年2月)。ただし、時価ファイナンスの問題は、これで終息した訳ではなく、第三次ブーム(1989年)はこの数倍以上の規模で再来した。
注釈
- 1) この金額の根拠は不明である。ただし、野村証券自身も、当初は中期国債ファンドの募集に極めて慎重だった。ファンドの安定性を維持するためには、急激な資金流入は避ける必要があると考えていた(『野村証券史1976-1985』147頁)。
- 2) 先例となる中期割引国債導入(1977年)の際は、マイナーな商品だったにも拘わらず、預金、金融債等との競合を問題視する銀行界とモメたことにより、発行開始が1年遅れた。それと比較すると中期国債ファンドは、もっとモンで然るべきだったという印象が銀行界にあったものと思われる。
- 3) 『野村証券の研究―「中期国債ファンド」誕生までの550日―「先見力」が生んだ空前のヒット商品』(プレジデント1984年10月号)参照。
- 4) 川本典康『蓬莱の夢』(講談社エディトリアル2023年)。高校時代の同級生による加藤暠の行動、心情を綴ったメモワール。
- 5) 松川隆志『激動の証券行政を振り返る』(証券レビュー第64巻12号)によれば、東京地検は当初、加藤暠を相場操縦で立件しようとしたが、証券局が立証が難しいとしたため断念した。
- 6) 銀行局・土田正顕調査課長は、当時、「銀行法改正の最大問題は、証券業務の位置づけの問題である。銀行と証券会社の分野調整―これほど難しい問題はない」と述べている。(金融財政事情1981年2月23日号)
- 7) 翌年に入ってからは、証券界の運動方針は「三原則が後退すれば反対」というものになった。(『統合10年の歩み』日本証券業協会(1983年)参照)
- 8) 北裏喜一郎氏は、証券史談で、「銀行法改正については、残念ながらわれわれの主張が全面的に認められるには至らなかった。ただ、この議論の過程において、証券市場の役割や証券会社の仕事というものが広く語られることとなり、…証券界の将来の発展にとってもいろいろな意味においてプラスになると思います」と述べている。(「続戦後証券史を語る」1996年日本証券経済研究所)
- 9) 国債の「シ団引受契約」では、シ団は共同して募集の取扱い及び残額引受けをする旨規定していたが、シ団内の「覚書」で、募集の取扱いは証券会社だけが行う旨定めていた。
- 10) 結局、いわゆる銀行の窓販は、証取法上の認可を要するが、銀行法上の認可はシ団引受けに伴う窓販については不要というややアクロバティックな解決策となった。その後、国債のシ団引受けは廃止されたので、現在はこのアクロバットは解消されている。
- 11) 銀行界の要望は最終的に、①銀行の証券業務を全面的に認可対象とするのは避けてほしい、②窓販実施の時期を明確化してほしい、の概ね2点であった。三人委員会の設置は、②に対する解答であった。
- 12) 少額貯蓄等利用者カード。利子配当課税の適正化と総合課税への移行のため、全国民に交付する本人確認用のカード。1980年に法案が成立し、84年1月実施予定だったが、国民・関係者の不安が強く実施されることなく廃止された。
- 13) 証券局は、海外CD、CPを証取法上の有価証券として政令指定する案を銀行局に申し入れたが、結局、銀行局の「短期金融市場は銀証相乗り」論が採用された。(「昭和財政史―昭和49~63年度」)
- 14) その後1992年の金融制度改革法により、海外CD、CPは証取法上の有価証券となる一方、拡大した金融機関の有価証券関連業に含められた。
- 15) 証取法上の有価証券としないため、投資家保護ルールが適用されない、銀行・証券会社以外の者が取扱うことを規制できない、といった問題があった。
- 16) その趣旨は、概して財務基盤が脆弱な非会員証券会社を援助するためだった。
- 17) 会員の同質性を確保する見地から、外国証券会社及び外国人等が支配している本邦証券会社には会員資格を認めていなかった。
- 18) ただし、外国証券会社の本店所在地の取引所において本邦証券会社の加入が制限されていないこと、というレシプロの条件は付いていた。
- 19) 渡辺美智雄大蔵大臣は、銀行の国債窓販に関する記者会見の席上、禿河証券局長と宮本銀行局長を握手させ、「これからも仲良くやるんだぞ。もし仲良くやらなかったら、宮本を証券局長にして、禿河を銀行局長にするぞ」と言ったというエピソードがある。
- 20) 吉本局長が三原則について説明した際、田中次官が「みんなの了承が得られるならいいがなあ」と言った(先述)のは、自身も説得に動くつもりでの反応だったのであろう。
- 21) 中期国債ファンドは、購入単位が1万円であり、それを引下げる必要があった。
- 22) 利金ファンドは、そのほかにも即日換金(中期国債ファンドは翌日)など今のMRFに近い商品性を備えていたが、購入資金は「公共債の利金」に限定されていた。
- 23) マクロ的に見ると、配当利回りが著しく低下し、個人投資家の株式保有からの撤退が見られた。時価発行増資が本格化した1970年とこの時点(83年)を比較すると、配当利回りは3.52%→1.39%、株式個人保有比率は39.9%→26.8%となった。