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第66巻第3号(2026年3月)

歴代証券局長口述記録を読む(その4)

森本 学(当研究所理事長)

1.小川是(ただし)局長(1992年6月~1993年6月)

小川是氏(1962年入省)は、官房(5年)、主税局(9年)、主計局(5年)を中心とするそのキャリアにおいて、枢要なポストを歴任した大蔵省のエリート中のエリートである。(竹下)蔵相秘書官、官房文書課長、(同)総理秘書官、官房総務審議官などを務めた。主税局時代は、売上税構想挫折で苦労したが、消費税の時には、竹下総理とのパイプ役としてその導入に貢献した。証券局長の後、主税局長、国税庁長官、事務次官を歴任している。

金融行政は、若い頃に銀行局(3年)の経験はあるものの、証券局勤務は無かった。ただし、証券局長就任の前年(1991年)10月から、証券監視委員会の設立準備担当の特命審議官(実質責任者)を務めた。この特命審議官就任については、ピンチに強いエース小川を登板させた、とも評された。

小川氏の人となりは、あるべき姿を追求する理論派であり、潔癖な性格と端正な容姿の持ち主だった。また、その粘り強い説得力には定評があった。

小川氏は、「特命審議官の時に…一番読みましたのは実は証券関係の企業小説でした。株式取引に参加する人たちがどんな気分でどういうことをやっているかというのは、証券局年報…(など)を読んでも正面からであって、素人1)にとってはやはりドロドロしたところかなというので、何十冊か買っては読んでいました。証券会社の人が…来て『審議官、こんな本をよんでいるようではだめですよ』と言われましたけれども、これは非常に役に立つ面がありました」と述べている。

92年6月の大蔵省人事では、証券局幹部(局長から各課課長まで)はほぼ「総入れ替え」となった2)。それまでの証券行政は、一連の証券不祥事を受けて行革審などで否定的に総括されており、小川体制では、証券行政の信頼回復が課題とされていた。

⑴ 株価下落とその対応策の検討

しかし、小川局長は就任後、「日々のところは実はほとんど市場の動向に目を奪われているような状況」だった。

株価は、1989年12月に史上最高値(3万8915円)をつけた後、90年から一転して急落し、同年秋には2万円程度まで下落した後は、概ね2万5000円前後で推移した。ところが、92年に入ると、銀行の不良債権問題や企業業績への懸念から株価は再び下げ足を速め、7月末には1万5000円に迫った。

これに対し政府は、(1万4309円の安値をつけた)8月18日に、「金融行政の当面の運営方針-金融システムの安定性確保と効率化の促進」を発表した。その内容は、金融機関の益出し抑制、不良債権処理促進3)等だった。さらに8月28日には「総合経済対策」として、公共事業等の追加のほか、公的資金(郵貯、簡保等)の株式運用強化などを決定した。株式市場は、これらの対策を好感し、株価は1万6~7千円台に回復した(その後株価は、97年夏まで概ね2万円前後で推移した)。

この株価下落への対応策について、小川局長は、「表に出なかったことでありますけれども、…当時私どもは『もし…株式市場が色を無くして暴落するようなときにはどうしたらいいか』ということを、1つは…山一救済のときの…証券保有組合だとか、共同証券のこととか、…戦後の金融機関再建整備だとか、(金融機関)経理応急措置法だとか…を勉強し」た。「幸いなことに…そのような事態は発生せず、その後何年か過ぎたわけでございます」と述べている。

また、不良債権問題について、「担保土地を処分したことによって生ずる、実現する損失。あるいは処分しないけれども回収不能債権が明らかなので、それを損失として計上して、その損失を何年間かで繰り延べ処理をするということができないかということも議論になった」。これについて、「技術的なところも含めていろいろとやりましたが、…法務省とやれば…商法上の問題があり、それだけの特別の事由というものを作り得るか…わからないという」状況だった。結局、「いろいろ銀行局がおやりになって、最後に買取り機構に至った」。

株価下落の原因に関して、小川局長は、「金融機関が益出し(して)…市場を悪くする、また、益出しなければいけないという悪循環を断ち切」る必要があり、「『私は銀行は決済機能を持っている以上、絶対株式保有を禁止すべきだ』と…銀行局長と話しておりました」と述べている。

⑵ PKOについて

「総合経済対策」(92年8月28日)で打ち出された「公的資金による株式運用の強化」は、世上、PKO4)(プライス・キーピング・オペレーション)と呼ばれ、公的資金による株価下支えと解された。

このPKOについて、(理論派の)小川局長は、「自分の考え方としては、…しょうがないから反対はしないと言っておりました」。「日本経済にとって…最大の問題は、日本の公的資金による株式保有であると思っております」。「(郵貯・簡保などの)国家保証ありの貯蓄資金があわせて400兆円にも達し、…(それが)自主運用・有利運用だといってリスクをとる運用を強めるに従い、そうした市場における効率的な価格形成が損なわれてきているのではないか」と述べ、しばらく前から始まっていた郵貯・簡保等の自主運用によるリスク資産投資及びそれを一層株式投資に振り向ける「PKO」に批判的な立場をとっていた5)

しかし、行政官として現実と折合いをつける必要もあり、小川局長は「公的資金による株式の買支えなんていうのは、いま申し上げた通りまったく論外ですが、PKO自体はある意味で市場関係者の願望をあらわすものとして、否定をしないことにしてずっとおりました」としている。「つまり、PKOというのは実態的に誰かオペレーションしたり、こうしようというものはない。しかし、一番大きな8月のときの市場がそうですけれども、みんな…大きな影に脅えているので、何か支えがあるのではないかと思いたい。…市場関係者の人たちみんなが、『そういうふうにして市場が壊れないといいな』といったイメージ6)が、PKOという概念を作っているのではないかというふうに受け止めることにしまして、それに乗っかっていることにいたしました」と述べている7)

⑶ 日経225先物問題

先述の「総合経済対策」には、「先物取引の在り方の検討」という項目が入っていた。

当時、「先物悪玉論」(株価下落は先物取引が原因であるという見方8))の一環として、大証の日経225先物取引の指数が株価単純平均であることに問題がある(指数の変動が大きい、裁定取引がし易い、小型株の動きが過大に影響する等)という批判が強まった。そのため、この日経225先物取引の商品性の改善策(実質的に「日経225先物廃止論」)を検討するというのが対策の趣旨だった。

小川局長は、「(株価対策の)他では局長として一番関わったのはこの「日経225」の先物問題でし」た。「これは、関係者が大蔵省の先輩…の東証理事長が長岡さん、…大証が山内さんでありまして、…(私が)着任しましたときに、『局長、これはやらなければだめよ』ということを(部下から)言われました」と述べている。

また、小川局長は、「これは東京の大手を含む証券会社の…大阪に対するえも言われぬエモーションが1つあるなという感じが」した。「株は下げるときには何でも理由にいたしますから、自分たちの東証の外に問題があったことが強かったと思い…それが政治家に持ち込まれた」と述べている。

証券局は、この経済対策の決定を受けて改善策の検討を行い、同年12月に「先物取引の在り方について」をとりまとめ公表した。それは、大証が日経225に代えて加重平均型の指数先物(後の「日経300」)を導入することを骨子としていた。

小川局長は、「12月の段階でまとめるときに、東証にも呑んでいただく(ことが)…2つあっ」た。「(1つは)東証と大証が2つあって世界の中での日本の証券市場の柱としてこれからもいくのだという認識を共通のものと」するということ。「第2点としては、大証が「日経300」に乗り換えていくと、それに対して、うまくいかないときには何か配慮をしてやらなければいけない」ことだった9)と述べている10)

この問題の処理について、小川局長は、「東証と大証というのはなかなか難しいところがあるという感じがいたしました。…ことごとに、大証は『大蔵省は東京にあるから東証ばかり肩を持つ』と言われますし、東証は『大証には大蔵省の人が歴代行っているから、小さいからといって大証の肩ばかり持つ』ということで」苦労があった旨述懐している。

2.日高壮平局長(1993年6月~1996年1月)

日高壮平氏(1963年入省)の大蔵省におけるキャリアは、主税局(6年)、国際金融局(4年)、主計局(3年)が長く、銀行、証券、理財といった国内金融部局の経験は無かった。一方で、官房長官秘書官、(宮澤)蔵相秘書官、文書課長、総務審議官を務めており、政府の経済政策の調整を多く経験していた。

日高氏は、証券局長就任の直前、総務審議官として、1992年8月の総合経済対策のとりまとめに携わった。「そうした経緯もございましたので、バブルがはじけた後の景気をよくするためには、…土地と株式市場を何とかしなければどうもうまくいかない…という認識」を持っていた。そのため、「私が証券局長になりましたときには、株式市場をいかに活性化するかということが最大の課題」だと考えていた。

日高氏の人となりは、豪快で、決断力、行動力があった。一方で、声も大きく、怒鳴るので、部下からは恐れられていた。

⑴ 時価発行増資の再開

時価発行増資は、株価急落により1990年4月から事実上休止状態となっていた。日高局長は、「この『事実上休止状態』というのは、非常に…不透明な形」だったとしている。証券局の通達も証券界のガイドラインも何も無かったからである。

1993年になると、政府保有株の売却(JR東日本)を再開することになり、同社株は7月に入札、10月に上場された。日高局長は、「政府保有株の売却というのは…事実上の時価発行増資に他ならないわけでありますので、…官優先という批判が生じないように民間企業の時価発行増資…も進めていかなければならない」。また、「この停止という状態が非常に不正常だった…ので、平成5年(1993年)12月にまず不透明な行政指導…をやめようということで、大蔵省のガイドラインの公表…によって時価発行公募増資の再開に踏み切った」と述べている。

ただし、「直ちに全面自由化ということにいたしますと、それほどマーケットの地合が堅調だというわけでもございませんでしたから、やはり…漸進的な自由化に踏み切らざるを得なかった」。「そのときの考え方は、基本的には…株主の利益に配慮している会社については、公募増資を認めよう」というものだった。

その基準は、①ROE10%以上、②2割以上の増配の公約、③株式分割の実行、④投資単位の括り直し等で、ガイドラインによって示された。

ただ、「当時、政府全体として規制緩和の流れが非常に強くて、…大蔵省の公表したガイドラインとはいえ、そういう行政指導によってマーケットに参加するものを制限する(こと)は長持ちしないだろう」と考えていた。そして、1995年3月の規制緩和推進計画において、同ガイドラインは『一層の緩和ないし撤廃の検討』をすることとされ、結局、このガイドラインは、1996年4月に撤廃された11)

⑵ 証券分野における規制緩和

「規制緩和」は、1990年代の歴代内閣の重要施策であり、また、経済対策の項目として推進されたことは、この時期に特徴的である。バブル経済の崩壊により、従来の経済制度・ルールを疑問視する見方が強まったことが背景にあるものと思われる。中でも、1993年8月に成立した細川内閣12)は、経済活動の「原則自由、例外規制」を掲げるなど規制緩和に熱心であり、同年9月、12月、翌94年3月に矢継ぎ早に規制緩和推進計画を打ち出した。

証券分野における規制緩和について、日高局長は、「それらは当然、当時の政府部内の1つの流れ、規制緩和の流れに沿うものであった」。「それと同時に、私自身、いままでもマーケットに不必要ないろいろな形での規制があったのではないか、あるいは…もう自由になっていると思われながらも実際には当事者…が『これはまだ規制があるのではないか』というように誤解をしているものがずいぶんあるのではないか」、また、「証券会社自体がマーケットの低迷を受けて非常に業績が進まない…状況の下でリストラの努力をやってい…ますから、そういう証券会社のリストラ努力に少しでも役に立つように規制を緩和していくべきではないか」、「そのような考え方から、実は着任早々からこの規制緩和・手続きの簡素化には積極的に乗り出していこうと思った」と述べている。

ただ、残念なことに一体何をやっていいものかがわからないということもあって、証券業協会、…証券団体協議会と…その両方の団体に証券界としてどういうものを…緩和してほしいのかという…要望をとりまして、その中からできるものについて順次自由化をしていこうというようにした」。

そして、「平成5年(1993年)9月に、各界から取り寄せた項目の中から…100項目13)ぐらいの規制緩和を行いましたが、そのうち30項目ぐらいは、『もう規制をしていない』のに、『やめてくれ』といわれたもの14)でした」。「『もうそういうことをやっていませんよ』ということが周知徹底されていなかったわけで、単に新聞発表するだけでは…なかなか周知できないということで、私の名前で証券会社の社長宛に直接送って、『こういうことは今はもうやっていないんですよ』ということを明らかにした」。「そのとき…言われましたのは、証券会社の社長宛に証券局長名で手紙が行く、普通は大体ろくなことがないということだったのですが、そういった手続きの自由化、規制緩和の手紙だったので非常に喜ばれた」と述べている。

個別の項目では、「一番効果があるように思われたものは、投資家に対して毎月作成して郵送する取引報告書の規制緩和でした。取引報告書の中で、…投資家保護の観点から問題のないものについては毎月報告しなくてもいいという」規制緩和をした。これは、「私の聞いた限りでは、…証券界全体で数億円のコストダウンが図られるということで、…それなりに非常に大きな効果があったと思っております」と述べている。その他、「業務規制の緩和では、…配当規制をやめるとか、…支店配置について…規制…を緩和するというふうに踏み切っていった」と述べている。

⑶ 証券税制

証券税制の問題について、日高局長は、「おそらく歴代の証券局の人間、それは局長ならずとも、…税制の問題の扱い、特に有価証券取引税の扱いが一番悩ましい問題であったのではないか」と述べている。さらに、「与党も含めて、外から見れば…証券局も主税局も当然大蔵省の中なのだから意見を一致させて持ってこいと…党の税調などでは言われる」。「他方で、証券界からは証券界の意向を各界に伝えて、是非実現を図ってほしいと強く期待されている」。「しかし、主税局との折衝といっても…特に有取税のような大きな話になってまいりますと、証券局と主税局との間で意見がなかなか一致するということはないわけで、それをどういう形で実現していくかというのは非常に悩まし」かった。

日高局長は、「私は、有取税について着任早々すぐに主税局と戦争し、動き出すのはちょっと難しいのではないかということで、まず…できるものから主税局にお願いをしていこうということで、…みなし配当課税(など)について」やった。「しかし、証券局長を2年間やりまして、…8年(1996年)度の税制改正というときに、マーケットは…調子よくないということもあって、有取税を何とかすべきだという声が非常に強くなって」きた。「このときはさすがに、私も、表立って動かなければ証券局としても立っておれないのかなということもあって、もちろん主税局に仁義は切りましたけれども、…与党の税調の関係の方々に、証券局としても有取税は何らかの形で軽減をお願いしたいということを強く働きかけた」と述べている。

有価証券取引税は、証券取引の流通コストを高め、市場流動性を損なう「悪税」として、長年にわたり証券界の強い不満のタネだった。また、諸外国にはこの種の流通税はほとんど存在しなかった。一方で、有取税は、有価証券譲渡益が原則非課税となった見返りに導入された(1952年)経緯もあり、有取税の軽重・改廃を論じる際には、常に譲渡益課税のあり方の議論が絡んでくるのだった。

この有取税の軽減問題は、「もちろん党税調の最後…までいっ(て)…大詰めの段階で主税局からは有取税のほぼ約3分の1の軽減とキャピタルゲイン課税15)の一部強化、これがセットで提案され」た。「証券界の意向としては、…軽減だけやってほしいということは明らかである。しかし、与党の税調の議論を経て…提案されてきた…このセットしかないのだということでありました。それを証券界が呑むのか吞まないか、証券界の意見を聞いて欲しいと、当時の与謝野政調会長代理から私に直接電話がありましたので、『それでは、ちょっと聞いてみます』ということで急きょ大詰めの夜遅く、…証券界の代表、協会の幹部の方々にも集まっていただいて、…これを呑むか呑まないかは証券界の判断だということで、…証券局室を開放して皆さんだけで議論してくださいと言って、私ども局長以下全員部屋から出て…議論していただいた」。

議論の結果は、「最終的に証券界として…は『キャピタルゲイン課税は困るけれども、どうしてもセットということであるのなら、もう一段有取税の軽減幅を増やしてほしい』というものでした。それを…主税局長にも伝え、与謝野先生にも伝えて、…最後、少し小幅ながら有取税の軽減幅が拡大された形でセットされた」。

最終的に有取税の主な税率が0.3%が0.21%になりました。キャピタルゲイン課税は…(源泉)分離課税の税率1%が1.05%と…わずかに強化された」。「証券界はキャピタルゲイン課税が強化されたことに対して、もちろん非常に不満があったと思いますけれども、私は、…ネットで650億円の減税ということで…税務当局もよく踏み切ってくれたのかなと考えた」と日高局長は語っている16)

注釈

  1. 1) 小川氏は証券局長に就任するまで、証券会社の店舗に行ったことはなかった、と述べている。
  2. 2) これに先立つ91年10月に、証取審で委員の大幅な交代があり、その中で大蔵省OBの谷村裕、竹内道雄及び坂野常和氏が退任(長岡東証理事長は再任)し、証取審会長も谷村氏から加藤一郎氏に交代した。
  3. 3) 具体的には、担保不動産の流動化(後の「共同債権買取機構」設立)、不良債権処理の税制上の取扱いの検討、不良債権額の開示の充実などだった。
  4. 4) PKO(国際平和維持活動)をもじったもの。1992年に法案が成立し、同年9月から初の自衛隊派遣(カンボジア)が実施された。
  5. 5) 当時、証券界幹部が小川局長にPKO発動を陳情したところ、その反応は否定的だったという逸話がある〔恩田饒著 2023年 河出書房新社『実録バブル金融秘史』P110以下〕
  6. 6) 小川氏の後任の日高局長は、口述記録の中で、「今の株式市場の規模…の下では、どんなに金を注ぎ込もうともプライス・キーピング…は行い得ないはずなのであって、PKOというのは一種のイリュージョンにすぎない、…そういうことを証券界がみずから言うのはおかしいのではないか」ということを「証券界に申し上げた」と述べている。
  7. 7) 当時、「PKO」政策の担当だった藤井理財局長は(プラクティカルに)、「当時の株式の取引規模…から考えると、1兆1200億円〔PKOのための財投追加額〕などというのは雨だれぐらいの効果しかない…しかし…、郵貯が買っているらしいというような情報が流れるだけで下げ止まるというような、あるいはどうも積極的に郵貯が買いに出ているらしいというので提灯がつく、要するにポンピングアップみたいな効果は非常にあったのだと思います」と述べている〔平成財政史 第6巻P248〕。
  8. 8) 1990年初からの株価下落に伴って、株式現物取引は大幅に縮小する一方、先物取引は逆に拡大し、売買高の比率は、当初は現物が上回っていたものがピーク時には先物が6.5倍に達した(米国は2倍程度)。そのため、90年8月から数次にわたり先物取引の規制措置(証拠金率の引上げ、立会時間の短縮、手数料の引上げ等)がとられた。
  9. 9) この「先物取引の在り方について」をとりまとめるに当たって、証券局、東証、大証等は確認文書(別名「川奈合意」)を交わしている。その眼目は、①我が国証券市場において、東証は現物、大証は先物で中心的役割を果たす、②新指数による先物取引が定着するまでの間、現行指数による先物取引は継続する、の2点だった(なお、②は同旨が「先物取引の在り方について」に入っている)。〔「独立不羈―故巽悟朗初代社長の人と業績」(非売品)P68以下参照〕
  10. 10) 大証の山内理事長は、この日経225から加重平均型への移行について、「政治的に収拾やむなしと判断した」、「救いは小川証券局長の配慮で次の二つ〔川奈合意の2点〕が同時に決まったことだ」と述べている〔大阪証券取引所史 第4巻P176〕。先物主体の大証にとって、日経225からの移行は、その生き残りが掛かっていた。
  11. 11) 時価発行増資の量的、質的制限は、1970年代から証券局の意向の下で、引受部長会申合せ等の形で行われてきた。上場企業による株主軽視の時価発行増資が、株式市場や投資家に被害を与えたという批判がしばしば起ったからである〔「口述記録を読む」(その1)(3)参照〕。1990年代の、時価発行増資の全面停止、大蔵省ガイドラインの公表、ROEや増資公約による厳しい質的制限は、従来のものに比べて異例な規制だった。その後、上場企業による濫用的増資が下火になるに従い、数値基準や利益配分ルールが廃止されるなど増資制限は大幅に緩和された。ただし、現在でも日証協の引受規則によって、上場企業の配当政策、資金の使途等を審査するなど、引受証券会社は安易な公募増資を排除することが期待されている。
  12. 12) 細川首相は、「バス停を10メートル移動させるのに霞が関のハンコがいる」と規制緩和の必要性を強調していた。
  13. 13) 1993年9月と12月の規制緩和項目を合わせた数。
  14. 14) 恩田証団協委員長(当時)は、その30項目は、表向き規制緩和済とされていても「実際には、証券局の窓口で適切に対応してくれていなかった」から要望した。すると、「予期せぬことが起こった。…(発表された)規制緩和事項の中に、その30項目が『規制緩和確認事項』として付記されていたのだ」と述べている〔恩田饒著2023年 河出書房新社『実録バブル金融秘史』P116以下〕
  15. 15) 当時、有価証券の譲渡益は、源泉分離課税と申告分離課税(税率26%)の選択制だった(大半は前者を選択)。源泉分離課税は株式売却に係る利益率を5%とみなし、その20%(つまり売却額の1%)を税率としていた。これは一種の優遇税制であり、有取税によってそれを補う必要があるというのが、税当局の論理だった。
  16. 16) 有価証券取引税は、結局、1999年4月に廃止された。そしてそれは、有価証券譲渡益の申告分離課税への一本化(源泉分離課税の廃止)とセットだった(ただし、後者の実施はやや遅れ、2003年からとなった)。