歴代証券局長口述記録を読む(その3)
森本学(当研究所理事長)
1.藤田恒郎局長(1987年6月~1988年6月)
藤田恒郎氏(1957年入省)の大蔵省におけるキャリアは、国際金融局の勤務が12年という国際派であり、銀行局(2年)の経験もあった。証券局は、局長就任前に審議官を1年務めている。
藤田氏の人となりは、豪放な論客であり、歯に衣を着せないところがあった。政策的には、明確な金融の国際化、自由化論者だった。
藤田局長は、就任後の箱根講演を「(事務方の原稿を)半分以上書き直して相当本音でやった」ところ、「そのときの証券界の反応は、…私は極めてまともなことを申し上げたつもりだったのですけれども相当ショックだったようです。何がショックだったかというと、…第1点はインサイダーでした」。後述するように、当時の東京市場はまだ「インサイダー天国」などと言われており、不公正取引の取締り強化に言及するだけで証券界は警戒感を持った。
「第2点は、やはり65条問題。これはもう私の話が新聞等で報道されましたら『今度の局長は65条見直しに言及した』というふうになりました。私は決して65条見直しに言及したつもりはなかったのですけれども」。
藤田局長は講演では、「業際問題は、かつては周辺部分を話し合っていくという形であったものが、最近ではそれを超えてきているという感じがする。これに対して行政としてどのように考えていかなければならないかというのが第2の問題である」と話している。以前の局長は65条問題について、「原則として堅持」などとさらっと触れる程度だったのに対して、藤田局長は4つの主要な行政課題の一つとして論じたこともあり、「(今度の局長は)65条見直しに前向きだ」と受け止められた。このため、「『そういうことではないのだ』ということを証券界にいろいろ説明して回った」と述べている。このことは、当時の証券界がいかに業際問題に神経質であり、「65条問題というのは…タブー」だったかを物語っている。
⑴ インサイダー取引規制
藤田局長は、上述の箱根講演(1987年8月)で、「グローバル化に伴う第2の問題として、不公正取引の取締りがあり」、「(インサイダー取引や株価操作は)グローバリゼーションが進んでいく過程において何とかしなくてはならない大きな問題の一つではないか」と論じている。その理由として口述記録では、「『日本はインサイダー天国だ』と、当時のフィナンシャルタイムズだとかユーロ・マネーだとか…さんざん書きまくってまし」た、と海外からの眼を挙げている。
「しかし、証券界の当時の常識からすれば、いきなり取締法を強化するのは、まずなかなか難しいかなと思っておりました」。「そこで、…証取審の中に部会でも作ってもらって、…不公正取引を排除するためには…どうしなければいけないのかというようなことを…1年ぐらいやって、その次に法律に結びつけるかというようなことも考えて、局内で相談していたのです」。
「しかし、そのときにタテホ事件1)というのが起きました。…これがまさにインサイダーだということで、相当当時のマスコミを賑わしました」。「私も新聞…などに出て、今の規制の取締りの中で何とかやりたい…(などと)申し上げたのですけれども、…『今の法律では取締りが出来ないのはわかっているではないか』…とか、相当厳しいことも書かれました」。
「『これをきっかけに、それでは思い切って法改正でもやろうか』と考えました。ただし、これが起きたのが9月ですから、審議会を開いて議論などをしていたのでは、法律の成立は次の通常国会ではなかなか難しいのではないかという議論があったのですけれども、これはもうこういう世論の中ではやらざるを得ないだろう」と考えた。
「これはもう本当に急ピッチでやっておりまして、タテホ事件の発生が9月だったと思いますが、10月19日に証取審を開いて公正取引委員会の部会〔正しくは「不公正取引特別部会」〕を設置していただいて、…10月30日に第1回目の会合を開いて、月に2回ぐらいのペースで会合を開いていただいて、…2月に答申をいただいて法制化した」。
「法制化の過程でも、…ずいぶんいろいろ問題がございまして、罪刑法定主義という原則ですから、インサイダー取引も相当細かく書いていかなければいけない」ということがあった。また、「そのときに言われたのですけれども、証取法というのはこれまでも何回か改正をやっている(が)、…大体、証券会社の業法に関する部門とか、そういったところの改正が多くて、…行為法についての改正というのは(昭和)26年の法改正以来1回もやっていないのだそうです」。「これまではむしろいかに証券会社をどういうふうに規制するか…という方に証券行政のウエイトが置かれていて、行為を規制するとか、…この辺について手は加えられていなかったということだと思います」と述べている。
国会では、「『こんな法律を作って取り締まれるのか』ということが盛んに出てまいりまして、特に、アメリカのSECは2,000人の職員を抱えて、準司法捜査権を持っている。『お前のところは何人だ』、…『そんなのでやれるのか』とか、じゃあ増やしてくれるかといえば増やしてくれるわけではない」と述べており、法制定後もインサイダー取引規制の執行は(監視委が出来るまで)未解決の問題だったことを示している。
インサイダー取引の取締り強化の必要性について、藤田局長がタテホ事件の前から問題提起していたことは、まことに慧眼だったと言うことが出来る。そして、そのことが事件後の迅速な立法作業につながったものと思われる。
一方で、当時の証券界は、取締まり強化に消極的または「相当抵抗があった」が、タテホ事件の問題化によって反対出来なくなったという見方がある。しかし、それは次の理由から単純化しすぎのように思える。
当初、藤田局長は箱根講演で、不公正取引の取締まり強化について、「まず、証券会社がその課せられた社会的責任を十分に自覚されて、自社内の不公正取引は完全にチェックするという心構えを持っていただきたい」と述べており、海外からのインサイダー天国批判に業者規制で対応しようとしていた節が見られる。証券界は、これに対してショックを受け警戒心を持った面が大きかったと思われる。その後、タテホ事件が起こり、証券局は法律改正によりキッチリ行為規制をする方針をとったため、証券界から大きな反対は起こらなかったというのが実際のところだったように思われる。
⑵ ブラックマンデーと特金・ファントラの決算処理弾力化
1987年10月19日月曜日、ニューヨーク株式市場は史上最大の大暴落を記録した(「ブラックマンデー」、ダウ30種平均が22.6%下落)。「20日には、おそらく東京市場も相当暴落するだろうということで、…宮澤大臣に…朝早く説明に行きました。…『では、日本はどれくらい下がるのか』と聞かれ、『もう最悪で18%ですよ』とお答えしたところ『そんなもので止まるのか』とか言われました。それでストップ安という措置についてご説明したら、『なるほど』ということでした」。これは、「もし、全株式がストップ安になったら何パーセントぐらい下がるのだと、当時の流通市場課長だった松川君に計算させたのです」。
「ブラックマンデーは日本とアメリカ、ヨーロッパなどとの株価の国際的なつながりが非常に強くなったということをはじめて強く意識させられた事件でした。ちょうどSECとの定期協議がありまして〔88年2月に第2回協議2)〕、…お互いにトップ同士の自宅の電話番号まで教え合って、いつでも連絡をとれるようにしよう」ということをした。
ブラックマンデー後も、日本の株価は下落基調で、「とうとうこの次に、株価下落、そして下手をすると世界不況のトリガーを引くのは日本であるというふうなことを外国で言われ始めた。…結局、株価下落の原因は、特金問題なのです」。当時、金融機関及び一般企業の特金の評価方法が、88年3月末までに原価法から低価法に移行することが予定されていた。このため、株価下落による評価損を埋めるために評価益の出ている株を売る動きが強まった。
「私も非常に気になって、…12月半ばぐらいからいろいろと案を作って、…ぼつぼつ銀行局等と折衝させていったのです。…ところが、これがなかなか難しい。…そのうち御用納めですから、私も年が明けてから何か手を打つか。…というふうには思っていたのです」。
「28日の御用納めで私も家に帰っていましたら、宮澤さんの秘書官、日高君から私の家に電話がかかってきまして、…『(株価について)大臣が非常に心配されておられる』ということです。それで、…年が明けてから…何とか対策を考えなければいけないと思っている」と説明したところ、「それを日高君が大臣に申し上げたら『それでは遅い。すぐやれ』と」言われた。「それで、…私も銀行局長の平澤さんのところに電話をかけまして説明して、『そういうことならすぐやろうよ』という話になりまして、正月休みを返上して作業をまとめてもらった」。「その内容は、…(銀行局は通達を出してしまったので)金融機関はしょうがない3)ので、一般の企業について公認会計士協会の方にはお願いをして、移行の時期を年度末の3月3日ではなくて4月1日以降決算が到来する企業からとする」というものだった。
それを、「1月4日に、…大臣が来られたときに…説明しました」。「そこで発動のタイミングをいつにするか、それは証券局長に任せようではないかということで、…説明は終わったのです」。
「私はいつこの対策を発動するか考えたのですけれども、当時は為替相場がどんどん円高に向かっていた頃で、大臣はそちらの方でもいろいろご苦労されて…おられた頃なのですが、お正月の間に円相場は120円近くまで上昇したと思うのですが、…やや円安の方向に動き始めたのです」。「そうすると(円高という)日本経済の先行き不安も解消し、タイミングとしても非常にいい。…(それで)1月6日実施ということで5日の市場が終わった後発表しました」。
「この対策は、タイミングが良かったということもあって、非常に効果がありました。翌6日には1,200円ぐらい戻しました」。「その後、あれがバブルの原因であるとか何とか、私もいろいろ雑誌にも書かれましたが、私はこの株価対策とその次のバブルは全く別問題だというふうに思います」と述べている。
2.角谷正彦局長(1988年6月~1990年6月)
角谷正彦氏(1958年入省)は、基本的に主計畑のキャリアを歩み、主計局に14年勤務(主計官、総務課長、次長まで歴任)した。ただし、若手補佐時代に証券局に4年在籍(業務課と企業財務一課〔後の資本市場課と企業財務課の業務を含む〕)したため、証券行政について相当程度の知識はあった。
角谷氏の人となりは、入省時の成績が三冠王(東大、公務員試験、司法試験のトップ)を謳われるだけあって、頭の回転が速く、仕事面ではヤリ手だった。性格的には、剛胆であり、強引なところもあった。理屈、議論に強く、証券規制のテクニカルな部分(例えば、証券会社の財務健全性規制4))にも関心があった。
⑴ リクルート事件
1988年夏、新規公開直前のリクルートコスモス株の譲渡により、多数の政治家、官僚、経済人たちが多額の利益を得ていたことが明るみに出ると、激しい批判の世論が沸き起こった。時あたかも竹下内閣は、翌89年4月からの消費税導入を目指して88年7月末に臨時国会を召集し、「税制国会」と位置付けた。
しかし、実際にはそれは「リクルート国会」と化した。「野党の方が消費税法案を阻止する…審議を止めたいというもっぱら政治的な思惑からリクルート問題を前面に出して、この問題を解決しないと消費税法案の審議に入らないという構えになった」。「私は、そんなことやる気があったわけでもないわけですが、…『やるとすれば証券局長であるおまえがやれ』という話になった」。
「これを処理するために我々が何かやらなければいけない」。そこで、「企業財務課長…に言ってリクルートを呼んで話を聞けと指示した。…証券を売り出したり発行するときに、50人以上であれば公募ということで証券局に届け出なければいけない(からだ)」。
マスコミや国会では、誰が株の譲渡を受けたかに関心が集中した。「ところがリクルートの方は、当然のことながら初めはリストなるものをなかなか出してくれなかったです。…(しかし)個別にある程度把握することができました5)」。
国会の質疑では、「簡単に言えば、売買それ自身は証取法に違反するわけではないけれども、『不特定多数の公募の場合、大蔵省に届けなければいけない』という話に該当するかどうか、…あるいは公開について証券業協会…のルール…に違反しているとすれば、その点は調べなければいけませんと…いうような話を」した6)。
また、野党からは「開示義務違反があるのならば、証取法26条〔開示義務者に対する検査権限〕を使ってリクルート事件を解明しろ」という要求も出された(それに対しては、同規定で譲受人を調べることはできないなどとして追及をかわしている)。
結局、「税制国会」は2度の会期延長により年末まで続き(会期160日、「長期国会」)、角谷局長の答弁回数は400回に及んだ。角谷局長は、国会での対応能力も高かった。
一方、株式公開制度の問題については、同年9月から証取審(不公正取引特別部会)で審議を行っていたが、事件が検察の捜査(贈収賄)開始(10月)、宮澤蔵相の辞任(12月)とエスカレートする中で再発防止策をまとめた。この点について角谷局長は、「制度的な問題としては、株式公開制度の改革ということで、…公開前2年間は株式を勝手に移動してはいけない。…第三者割当したときには、ちゃんとディスクローズをしなさいという話にした。一番苦労したのは、公開株の価格決定方式を入札方式に変えさせたことです。これは私は実はブックビルディング方式でもいいのではないかという感じもしたのですけれども、あのときは、やはりNTTのような入札方式以外ちょっと考えられなかったですね。証券会社の信頼もあまり厚くない時代だったし」と語っている。
⑵ 金融制度改革
いわゆる金融制度改革は、1985年から金融制度調査会(銀行局側の審議会)で検討が始められ、1987年12月に報告書「専門金融機関制度のあり方について」がまとめられた。同報告書は、銀証分離を含む当時の専門金融機関制度の見直しを強く示唆した。大蔵省全体としては、これを推進する立場をとっており、証券局としてもこの問題を検討せざるを得ない状況にあった。
角谷局長は、「(証券局長)就任時に『この問題をうまく対応してくれよな』と(大蔵省首脳から)まずご注文いただいた」と述べている。しかし、「証券界の方が全く逃げ腰でやる気なしというのが、私が証券局長になったときの雰囲気で、…証券界は全員横を向いていた」。
そのため、「業際と言ったら全然だめになってしまう。…私は、業際という枠をちょっと外したところからものを見ていった方がいいのではないかということで、…セキュリタイゼーションという流れをどう考えるかというところから勉強しよう」と思った。「平澤さん(銀行局長)にその話をしたら、『おまえ、まさか逃げるんじゃないだろうな』って言われた」。
証取審では1988年9月から、基本問題研究会を設置して、金融の証券化(いわゆるセキュリタイゼーション)に関する問題について審議を開始し、89年5月に中間報告書「金融の証券化に対応した資本市場の在り方について」をとりまとめた〔第一ラウンド〕。この検討について角谷局長は別の文献7)で、「金融制度調査会と同じ土俵に乗るのではなく、新しくまだだれも手をつけていないが将来性のある証券化商品(CPや住宅ローンの証券化など)の分野でまず相互乗り入れを始めることが現実的なやりかただと考えた」と述べている。
同じく1989年5月に、金制調は中間報告書「新しい金融制度について」をとりまとめ、銀行・証券・信託の相互参入について5つの方式(案)を提示した(そのうち「業態別子会社方式」と「特例法方式」が比較的問題が少ないとした)。そして金制調は、それは銀証分離制度にも係わる問題であることから、証取審での検討を要請した。
それを受けて証取審は、金融の証券化への対応をはじめとする証券取引制度等のあり方を検討するため、基本問題研究会に第1、第2部会を設けた。89年9月から、第1部会は証券化に対応した規制のあり方を、第2部会は(仲介者の問題を含む)市場のあり方を審議した。
そして第2部会は、1990年6月に報告書「国際的な資本市場の構築をめざして」をとりまとめた〔第2ラウンド〕。「議論をまとめる前に、…銀行局ともすり合わせをする必要があるし、…我々は一種の根回しをいたしました。…証券界については4社あたり。当時、協会長は山一の横田さん…のところに行って相談したら、最終的にはのんでくれました。ただ、協会長サイドも…中小証券のことを考えまして…それでは、『株式のブローカー業務はしばらくやらせないことにしようか』、『それならいい』…(など)いろいろなことを議論しました」。
「私の感じでは、公社債というエクイティから遠いところから、また新しい…証券化関連商品、そういうものからどんどん相互参入していって、最後は株の方に入っていってブローカー業務…こういう発想でものを考えました」。「蝋山(昌一大阪大学教授)さんが基本問題研究会の座長をしておられましたが、…『これでまとめたい』と言ったら、蝋山さんも大変喜びまして、…『それなら自分も大いに尽力します』と」言われた。
「業界の方も大体それでOKだったのですけれども…議論をまとめるについて一番困ったのは実は谷村裕さん(元次官、元東証理事長)なのです。谷村さんが反対するのですよ。…証取審の会長でもあるのですが、彼は法律家の頭なもので、つまり銀行というのは…銀行免許の範囲で子会社を作るのならいいけれども、銀行免許と違う業務範囲で子会社を作るというのはもともと法律的におかしい…という議論なのです」。また、「谷村さんは…サウンドバンキング…というお考えが根っこにあった」。
「そのときに長岡實さん(元次官、東証理事長)、竹内道雄さん(同、前東証理事長)なんかが心配されまして、…『おまえ、証取審の会長が証券局の出したものに反対するのではどうにもならない、何とかまとめろ』という話になりまして、…そういうことでだいぶ表現をトーンダウンしまして、何とか答申にこぎつけた」。
第2部会報告書(銀行の証券業務への参入に関する部分)について、平成財政史は、「特定の結論に集約されている段階ではないとしつつも、証券子会社を設立する方策をとる場合には、我が国の実態に即した有効なファイアーウォールを設定することが必要であり、市場機能の安定性を損なうことのないよう、参入の分野、テンポは漸進的段階的に慎重に行われる必要があると指摘した」と要約している。
しかし、実際に報告書を読むと、上記のフレーズは各所に散在された記述であり、実に様々な意見や状況認識が羅列されていて、論旨は極めて読み取りにくいものとなっている8)。結局、この時の証取審第2部会報告書は、銀証相互参入について方向性を示すというよりは、同問題(証券子会社の設立を含む)を証券サイドが正面から議論したところに意義があったものと思われる。
⑶ 損失補填と「角谷通達」
1989年11月、大和証券が約100億円の損失補填をしていたことが発覚した。証券局は、その少し前に大和証券から事態の報告を受けた9)。「私も、損失補填の話を聞いている途中に、これは必ずしも大和だけの問題ではないという話を耳にしました」。「当時、たまたま…山一(と)新日本の証券検査をやっておりました。…(そこで)改めてもう1回損失補填を中心に調べろということを私自身が指示した」。
「そうしますと、新日本もある程度出ましたが、山一についてはかなり多額の損失補填が出てきました。相当大きな飛ばしが3つ4つありました」。「なぜそういう飛ばしがあるのかという…と、結局、ブラックマンデーのときに損した事業法人の特金がたくさんある」。「検査して損失補填という状況がかなり慣行化しつつあるのではないかという感じを持ったわけです。事前の利回り保証なら証取法上違法として処分できるわけですけれども、しかし、事後の補填ということになると事件を立件できない」。
それを、「当時の証券業務課長の水谷君などにも相談しまして、『これは大変だ、昔、山一は運用預かりで潰れたけれども、今度潰れるときは飛ばしで潰れるぞ』と言った。…そこで、損失補填禁止通達を出したわけです」。
証券局長通達「証券会社の営業姿勢の適正化および証券事故の未然防止について」(いわゆる「角谷通達」)は、89年12月26日に発出された。その内容は、①事前の損失保証による勧誘はもちろん、事後の損失補填も慎む、②特金は、原則として(1年以内に)投資顧問に移管する、③損失補填について内部点検して、その結果を翌3月末までに報告する、というものだった。
ところで、その後1991年になると、大手証券会社の暴力団への資金提供が発覚(5月)し、さらに証券4社による巨額の損失補填が報道された(6~7月)。そのため、証券会社の損失補填に対して社会的批判が高まり、それに関連して、89年の角谷通達は損失補填を黙認していたのではないかという疑念が呈された。
そのきっかけは、91年6月の野村証券の株主総会での田淵義久社長の発言だった。田淵社長は、質問に対して「(補填は)大蔵省にご承認いただいている」と発言したと報じられ、大きな反響を呼んだ。これについては、「田淵義久さんが後から私に電話してきて、『実は舌足らずで申し訳ない、本当は損失補填について証券会社は大蔵省にご報告して、社内処分についてご了解いただいたと言ったはずだ』と言うのです。…新聞記者が来ましてテープをもう1回起こして聞いてみると両方とも解釈できるけれども、…損失補填を了解得たと言った方が記事としておもしろいから、そう書いてしまったと言うのです」。
90年3月の証券会社の報告には、(通達発出後)90年に入ってからの損失補填も相当含まれていた(これについて91年6月に日経新聞がスクープ報道した)。この点について、「大蔵省は3月までの補填を黙認したのではないかと言われました」。「(しかし)新聞が言っているように黙認したとか何かという話では全くない」と角谷局長は断言している。「当時本当に心配していたのは飛ばしなのです」。「要するに端的に言えば、飛ばしは簿外負債だからきちっとしろということは言っています。ただ、飛ばし以外の事後的な補填とか解約料というものを払ってよいということは一切指導していない10)」と述べている。
さらに、「私自身、この問題が起こったとき、『俺、出て行って国会で説明してもいいぞ』と言ったのですけれども、やはり『大蔵省の伝統というのは現役が責任を持つ』という話がありまして、松野君に迷惑かけた…と思うのですけれども、もう少し事実関係をはっきり言わせていただければよかったのではないかと私個人的には思っています」と述べている。
「角谷通達」は、大和証券の損失補填を個別案件として軽視せず、業界全体の問題として警鐘を鳴らした果断な措置だった。この通達により、証券会社の飛ばしの処理は進んだのであり、(89年12月は株価がピークだったことを考えると)それがなければ、この問題による証券会社の破綻は山一だけでは済まなかったかも知れない。しかし、暴力団問題や損失補填で証券界及び証券行政に対する国民の不信が頂点に達していた当時、角谷通達が正当な評価を得るのは難しかったのだと思われる。
3.松野允彦局長(1990年6月~1992年6月)
松野允彦氏(1961年入省)は、大蔵省の中で、証券局8年、理財局7年、銀行局3年と専ら金融部局でそのキャリアを形成している。そして、理財局で国債課長、銀行局で銀行課長、総務課長、審議官、証券局で資本市場課長、審議官と枢要なポストを歴任しており、「金融行政のプロ」と目されていた。また当時、銀行局と証券局の人事交流が稀な中で、直前に銀行局→証券局→銀行局という職歴を経て証券局長に就任しており、金融制度改革を仕上げるのにうってつけの人材と見られていた。
人となりは、熟慮断行型で、証券市場・証券業務の実態にも通じていた。
⑴ 一連の証券不祥事(特に損失補填)とその再発防止策
1991年に大きな社会問題となった一連の証券不祥事〔暴力団問題(5月~)、損失補填(6月~)〕に関して、大蔵省は同年7月、大手4社に対して法人営業の一時自粛処分をするとともに、関係幹部(次官、証券局長等)の訓告処分を行った11)。「この不祥事の問題(特に損失補填)…の受けとめ方…は、8月7日に橋本大蔵大臣が…5つほどの問題点を国会答弁で発言した」。
「一つが、ルールの明確性が欠けている」。「損失補填というのは、…法律上は何ら手当てがなされていなかったわけ…ですから違法というわけにはいかない。しかし…損失補填(を)やめろという通達をだしていたわけです」。「では通達違反というのはどうなるんだというと、…違法ではないけれど、非常に不当な行為だということになるわけです」。「そういった(曖昧な)こともあって、…なるべく通達でいろいろ制限するとかいうことはやめたほうがいいという方向に当時はいった」。
「2番目が、ルール違反者に対する罰則の透明性欠如」。「違法ではありませんから、罰則というわけにはいかない。そうなると社内処分…社内処分というのは普通は公表されないわけで…世間はわからない」。
「3番目は、検査・監視体制が不十分だ」。「4番目は、自己責任原則の不徹底。これは投資家サイドの問題ですけれども」。「5番目が、業界保護行政…行政指導というような形…あるいは…天下り問題ですね」。
一方、証券不祥事の再発防止の問題については、同年7月に海部首相が行革審に対して「証券・金融不祥事の再発防止策の検討」を要請した(当時、銀行業界においても巨額の架空預金証書事件などが発生していた)。行革審は9月に「証券・金融の不公正取引の基本的是正策に関する答申」を提出した。その内容は、①証券行政の在り方の見直しと透明性の確保、②自主規制機関の機能充実、③検査・監視体制の在り方、④自己責任の徹底、だった。
「行革審の議論というのは、かなり厳しいものだった」。①については、「免許制度の是非というのがここに入っている。…当時の大蔵省の考え方からすると、やや一歩先んじているというふうな感じがした」。②については、「証券業協会…の業界団体の性格を払拭しろ12)という、これも若干勇み足的でし」た。それから③で、「証券・金融検査委員会の設置というのが出ておりまして…銀行検査も一緒に、別に移してしまえ」と言われた。
この問題については、その後12月に行革大綱によって方針が閣議決定された。そこでは、「証券取引等監視委員会の設置(となっており)、これは先ほどの金融というのがとれておりますから、ここで少し巻き返しをした」。また、「自主規制機関の監査機能の充実・強化(は)、『機能純化』という言葉が入ってきた。…業界団体としての性格を払拭しろというの(に代わって)」。「いずれにしても、この閣議決定の段階では、かなり行革審の考え方は薄められた」。
証券不祥事の再発防止のための立法措置は、まず、損失補填、取引一任勘定を禁止するための証取法改正(91年10月)が行われた。さらに、年末の閣議決定を受けて、再度法律改正が行われた(いわゆる「公正確保法」92年5月)。その内容は、①証券取引等監視委員会の設置、②自主規制機関の機能強化、だった。
①については、「(監視委員会に)強制調査権…を与えた。私の感じでは、損失補填というのは確かに証券会社も非常によくないけれども、法人もよくないんじゃないか…ということもあって、…悪質な一般投資家も強制調査ができるということにした」。②については、「証券業協会…を証取法上の法人に格上げをし」た。「それから、…業界団体機能をどう位置付けるか。これはあえて法律上は何も書いていなかったわけです」。
松野局長は、全体を振り返って、「証券不祥事の問題というのは、私は損失補填については当時、…どうも差別待遇だというのでギャーギャー言われて、…時期が時期だからしょうがなかったんですけれども、もっとショックだったのは、やっぱり暴力団関係です。これはやっぱり、ちょっとバブルの中で気持ちが緩んだという…ことだったんじゃないかなという気がしております」と述べている。
⑵ 金融制度改革
「この問題は、…昭和60年(1985年)9月に金融制度調査会で審議が始まりました。実はこのときに私は銀行局総務課長でして、そのときの問題意識というのは…長期信用銀行を一体どうするのかという問題だった」。「特に発行市場の問題〔4社寡占〕があったものですから、長信銀3行を…証券市場に入れるということでどうかというような気持ちでいた」。「長信銀3行…これは本体で認める…ぐらいなら証券界の抵抗も小さいんじゃないかなと」考えていた。
ところが、「都市銀行が今度はユニバーサルバンキング論を盛んに言い出した」。「この当時…証券は非常にもうかる業務だ、…大企業の銀行離れというのもそろそろ起こってきておりましたから、都市銀行にしてみても証券業務に入りたいというような声がだんだん強くなってきた」。「そうなってきますと、なかなか話がややこしくなってきて、都市銀行までなだれ込んでくるのでは、これは到底、証券業界は納得しない」。
「それでしょうがないから考え出したのが、…平澤銀行局長のときに5つの方式というのでずらずらっと並べ」た。「ともかく競争条件から見ても、子会社でないとちょっと中小証券がもたなくなっちゃう、…かつ証券業務と銀行業務というのはカルチャーが全然違いますから、(5つの方式の中では)これは業態別子会社にせざるを得ない、そのかわり都銀も入ってくる」。
「証取審のほうは…3年おくれの昭和63年(1988年)9月から審議が始まった」。「そのときに…証券界をうまく議論に参加させるためには…証券化という問題…の切り口で入っていくということが、当時の状況としては一番証券界を説得しやすかった」。その後、証取審(基本問題研究会)は89年5月に中間報告書「金融の証券化に対応した資本市場の在り方について」をとりまとめ〔第1ラウンド〕、さらに90年6月に第二部会報告書「国際的な資本市場の構築をめざして」をとりまとめた〔第2ラウンド〕。
そして、松野証券局長就任後の1990年7月から、それまでの金融制度改革の議論に決着をつける検討が、金制調と証取審で開始された〔第3ラウンド〕。その結果、金制調は91年6月に「新しい金融制度について」を答申し、その中で相互参入の方式として業態別子会社が適当であるとの結論を示した。
これに対し、証取審は91年6月に報告書「証券取引に係る基本的制度の在り方について」をとりまとめた。報告書は、①新しい(幅広い)有価証券概念、②公募、私募の定義の見直し、③市場仲介者について、を内容としていた。③では、銀行による証券業務への参入は問題が多いと指摘しつつ、証券発行市場への新規参入は競争促進の観点から必要性が高いと述べ、また、子会社方式を念頭に弊害防止措置や参入の分野、テンポへの配慮を求めた。
「最終報告書が…やっとでき上がったわけですけれども、実はその過程で…谷村さんが非常に頑張られた〔反対した〕」。それは、「サウンドバンキングの考え方(で)、…銀行というのは証券業務をやるべきではないというのが、彼の一貫した主張なんです」。それに対して、「サウンドバンキングといってもバンキング自体が、大企業が銀行離れをしていっている現実がある…銀行も証券化して売りたいというようなニーズもある…というような議論を」した。「もう一つ谷村さんが言っておられたのは、…そもそも銀行本体でできないものを、その100%子会社がやるというのはおかしい…という議論なんです」。「私は逆に、100%子会社がやっていいということは、それは銀行にその行為能力を与えたんだ…というような議論をし」た。しかし、谷村さんは「なかなか最後まで『うん』と言われなかった」。「最終報告のところでは、まあ蝋山さんの説得で、しぶしぶ納得されたのか、されないのか、…少なくとも反対はされなかった13)」。
その後、大蔵省は両審議会の結論を基に法案の作成を進め、1992年6月にいわゆる「金融制度改革法」を成立させた。法案では、業態別子会社に関する規定を設けるとともに、有価証券概念を拡大した(拡大した有価証券(CP等)は、銀行本体で取扱えるものとした)。なお、銀行の証券子会社は、当分の間、株式ブローカー業務をしてはならない旨が法律に規定された(「これは…理屈じゃなくて、やっぱり中小証券が困るからしばらくは入ってくるなと…いうことだったと思います」)。また、銀証兼営に伴う弊害防止措置(アームズ・レングス・ルールなど)についても法律で定められた。
「金融制度改革」は、それまでの各業態のナワ張り的制度・慣行14)を取り払い、爾後の金融自由化(ビッグバンなど)を可能にした画期的な制度改革だった。ただし、その時に提起された、銀行の影響力を利用した証券業務は好ましくない等の論点や弊害防止措置の必要性などについては、今日も未解決の問題として残されている。