〔講演〕米国移民政策の歴史
廣田秀孝
(米国カリフォルニア大学バークレー校 歴史学部 准教授 米国移民史学会 副会長・次期会長)
ただ今御紹介にあずかりましたカリフォルニア大学バークレー校で教えている廣田と申します。今日はお招きいただき、また、朝からお集まりいただきまして、ありがとうございます。
トランプ政権下のアメリカにおいて移民が非常に重要な問題になっていることを受けまして、移民政策についてのお話を御依頼いただきました。
私の専門はアメリカの歴史です。本日はいかにしてトランプ政権の移民政策を歴史的に理解することができるのかについて、お話ししたいと思います。
1.米国の移民政策
最初に、トランプ政権下でどのような移民政策が展開されているのか、また、されてきたのか、簡単に御紹介します(図表1)。
図表1

トランプ政権による移民政策の中心となっているのは、国境、特にアメリカ-メキシコ国境で非常事態が起きている、国境が外国人に侵略されているという「説」です。「非常事態」と「侵略」の2つのキーワードがトランプ政権の移民政策の中心にあります。
実際にアメリカが侵略されているのかというと、武装した他国の軍隊が押し寄せてきているのを侵略と言うのであれば、国境でそのような状況は起きておりません。「『侵略』説」と書きましたが、「侵略」は1つの言説です。侵略されていると執拗に主張することで、移民制限政策を正当化するのが1つのパターンになっています。
侵略もしくは非常事態が起きているという言説に基づいて具体的にどのような移民制限政策が行われてきたかというと、トランプ政権の1期目も含めて考えると、宗教を中心にした移民制限、例えばイスラム教徒に対する入国規制があげられます。もしくは経済的な観点から、多くの外国人労働者が入国することによってアメリカ人の雇用が脅かされるとか、大学も含めて社会におけるいろいろなポジションが外国人に奪われているという論理を使って移民制限を促進しています。もしくは単純に人種的・文化的な偏見に基づき、非ヨーロッパ系移民の入国を制限することが行われています。
ここで着目したいのは、これらの移民制限は必ずしも非正規移民に対してのみならず、合法的にアメリカに入国しようとしている移民に対しても実施されているということです。トランプ政権下では、移民のステータスに関係なく、移民全般に対して制限が行われています。
その中で強制送還がニュースで話題になっています。強制送還の制度は19世紀以前からずっとアメリカにありますが、特に近年、移民・関税執行局(Immigration and Customs Enforcement、ICE)と言われる政府機関が非常に悪名高い。強制送還の方法として、合法的な手続きをとらず逮捕、拘留して他国に送ってしまうようなことをしており、それらが人道的な観点からも法的な観点からも問題になっています。この強制送還のスタイルが一体どこから来たのかということは歴史的な問いのひとつです。
もう一点最初に言及したいのが難民政策です。アメリカでは20世紀以降、難民政策が導入され、発展してきましたが、トランプ政権下では難民政策が極端に縮小されています。ここで指摘したいのは、難民政策をめぐる偽りです。トランプ政権は、難民が法を破って非正規にアメリカに入国しているということを主張しています。
しかし、これ自体は大きな間違いです。外国人がアメリカに来て難民認定をリクエストすること自体に法的な問題はありません。難民認定を申請して、それが却下されてなおアメリカに残っている場合に初めてその人間の滞在が非正規とみなされますが、難民が到着した瞬間、既に法を破っている、つまり本来全く別の二つのカテゴリーである難民と非正規移民が、あたかも一つの同じカテゴリーであるかのような説明を政府がしていることが問題になっています。
また現政権は、移民とも関わりますが、出生地主義に基づく市民権の廃止を目標の一つとしています。アメリカはその歴史の中で、日本とは異なり、親のステータス・国籍・人種にかかわらず、アメリカで生まれた者は全て合衆国市民であるという制度が生まれましたが、それを廃止しようという動きが近年とても活性化しています。これ自体も説明が必要な考え方であり、私の本日の講演の最後の方で、出生地主義に基づく市民権の考え方が一体どこから来て、なぜそれを廃止することが問題なのか、お話ししたいと思います。
2.米国の移民政策の歴史
まず宗教・経済・人種に基づく移民制限、強制送還政策等、これらの一連の政策がどういった理由、どういった背景で、どのようにアメリカに導入されてきたのかについて、お話しします。
移民政策の歴史を考える上で中心的な概念はネイティビズム(Nativism)です(図表2)。「ネイティビズム」は日本ではあまりなじみがない言葉かもしれません。的確に相当する日本語がなく、片仮名で書くしかないのですが、反移民、反外国人感情、若しくは外国人排斥主義と訳すことができます。お聞きなじみがある言葉のレイシズム(racism)は人種に基づいた差別です。ネイティビズムはレイスではなくてネイティビティー(生まれ、出生)に基づく敵意で、実際にはそれが反移民、反外国人感情ということです。
図表2

ネイティビズムはいろいろな形で表れます。例えば思想、言説という形で、メディアの中や人々の話の中で反移民感情が表れることがあります。もしくは表象という形で、風刺画や政府が作るパンフレットなどで外国人が非常に望ましくない形で描かれたり、人種差別的な描き方をされることもあります。
図表2の右側に出ている風刺画がネイティビズムの表象の一つです。西海岸の方から日本人が大量に押し寄せてきて、白人のアメリカを象徴するアンクル・サムがアメリカから追い出されようとしている。正に日系移民に対するネイティビズムが表れている風刺画です。
言説、表象は簡単に言えば悪口ですが、それ以上に、日常生活の中で移民に対して嫌がらせが行われたり、極端な例ではストリートバイオレンスが振るわれることもありました。これは個人的な暴力かもしれないし、ある移民集団に対するコミュニティレベル(町ぐるみ)の暴力になることもあります。
最後は政府によるネイティビズム的な法律、政策で、その表れが移民制限、強制送還法と言えます。
次に、アメリカにおけるネイティビズムの歴史的な展開について、幾つかのトピックに絞ってお話しします(図表3)。
図表3

歴史的に考えた場合、ネイティビズムの一つの重要な側面は宗教です。そもそもアメリカは、社会としてはイギリスから来た入植者を中心として作られた国と言えます。もちろんその背景には、ネイティブアメリカン(アメリカ先住民)が抑圧されたり、アフリカからの黒人が奴隷として使われていたという事実があります。
イギリス人入植者は基本的にキリスト教徒の中のプロテスタントと呼ばれた人間でした。彼らによって作られた社会に、19世紀の1830年代から1850~60年代にかけて多くのアイルランド系カトリック教徒が移民してきました。19世紀後半の1890年代、1900年になると、イタリア系というまた別のカトリック教徒がアメリカに押し寄せてきました。
カトリック教徒の流入に対し、プロテスタントのアメリカ人は非常に強い敵対心をもちました。御覧の風刺画はその反カトリック感情を表しています。アメリカの中では異端に見えてしまうカトリックの司祭数人がボートに乗っていて、中央に描かれている司祭が非常に攻撃的な態度をアメリカに示しています。この場合はカトリシズムですが、対外的な何かにアメリカが脅かされているという、感情・感覚はアメリカの移民政策のコアであり、最初にご紹介した現代の「侵略」説の起源になります。
移民政策のコアになる感情・感覚はまずカトリック教徒の移民に対して形成されましたが、カトリック教徒に限らず、他にもユダヤ教徒や、仏教徒を含めるアジア人、20世紀になるとイスラム教徒など、キリスト教徒ですらない移民が来るにつれ、拡大しました。
ネイティビズムのもう一つの側面として、経済的な要因に基づく反移民感情があります。18世紀末から19世紀、20世紀にかけてアメリカに来た移民の多くは一般的に貧しいと言えます。政治的な難民もいますが、そもそも裕福で生活に困っていなかったら移民する理由がありません。多くの人間が、自国で困窮して、よりよい生活を求めるという経済的な理由でアメリカに移民しました。
中には極めて貧しいアイルランド系移民の集団がありました。アイルランドでは19世紀中盤に、世界史で「ジャガイモ飢饉」と言われる極めて深刻な飢饉がありました。その結果、アイルランドは人口の3分の1を失い、非常に困窮しました。
その状況を描いたのが今見ている二枚の絵です(図表4)。左側はイギリス人が描いた、ボロ着をまとって、靴はないし、住むところもままならないようなアイルランド人の絵です。そうした人間の多くは当時のイギリスやアイルランドにあった救貧院に入りました。救貧院は今で言うシェルターで、社会福祉、具体的には食べ物、洋服、寝る場所を提供してくれました。
図表4

そうした施設に入る人間が最終的にはアメリカに移民してきたとアメリカ人は思いました。右側のイメージは、アイルランドのカウンティ(県や州のようなもの)の一つであるゴールウェイにあるプアハウスが船に乗せられてそのままアメリカに来ているという風刺画で、当時のアメリカ人の感覚を表しています。アメリカ人としては、プアハウスにいる困窮したアイルランド人全員がアメリカに移民し、上陸した瞬間から貧しく、労働力としてまるで使いものにならない上に、最終的にアメリカ人の負担になるのはけしからぬということで、経済的というか、貧困を理由にネイティビズムが展開しました。
必ずしも全ての移民が働けないほどの貧しさではなく、むしろ圧倒的多数の移民が労働者としてアメリカに来るのですが、これもアメリカ人にとっては問題になりました。移民労働者は、アイルランド、イタリアなどの国籍を問わず、基本的にはアメリカ人よりも低賃金で働くと思われていました。特に資本主義の中では雇用者は低賃金の労働者を好んで雇うため、移民労働者がジョブマーケットにいる限り、アメリカ人は賃金において彼らと競争できません。
図表5の絵がその感覚を表しています。絵では、ボロ着をまとった移民労働者が、アメリカ人労働者の家庭にあるパンを後ろから盗もうとしています。彼らは労働の質は悪いが低賃金で働く。結果として、アメリカ人の平均的な賃金は下がる一方であり、最悪、アメリカ人の雇用が移民に脅かされて乗っ取られるのではないかという言説が19世紀から展開され、それがネイティビズムの一翼となりました。
図表5

こうした経済的な要因に基づくネイティビズムは極端な移民の見方をしています。全ての移民が生涯プアハウスに入っているわけではもちろんありません。一時的に困窮して救貧院に入っても、状況が少し回復して雇用先が見つかりそうになったら、救貧院を出て再び労働人口になります。そもそもアメリカ自体、特に19世紀末から20世紀初頭にかけて、産業革命がとても進んだ時代は、国全体で常に労働者を必要としていました。総合的に考えると、今もそうですが、移民はアメリカ経済に多大な貢献をしています。単純に移民は負担にしかならないとして、国に対する移民の総合的な貢献が完全に見落とされているのがネイティビズムの特徴です。
もう一点、ネイティビズムの大事な側面として文化偏見があります。図表6の左側は、アイルランド人とドイツ系移民に対する偏見です。アイルランド人は「IRISH WHISKEY」、ドイツ系移民は「LAGER BIER」とドイツ語のスペルに似せて書いてあって、アイルランド人やドイツ人は飲んだくれで自制がきかない、酔っぱらうと非常に暴力的になって社会を乱す、ならず者だという偏見が出ています。
図表6

右側は、アイルランド系に対する似たような風刺画です。ラム酒のボトルを持って非常に暴力的な雰囲気を醸していて、顔自体がもはや人間ではなくて、ある種のモンスターのように描かれています。当時のマジョリティーである、イギリスから来た移民を先祖に持つアメリカ人からすると、アイルランド人は劣った人間に見えたのです。
図表7は、19世紀末のイタリア人に対する文化偏見です。イタリア人が人間ではなくてネズミの集団として描かれています。マフィア、アナーキスト(無政府主義者)と書いてありますが、両者とも社会を乱す、ならず者であり、社会的に望ましくない集団であるということで、イタリア人は来てほしくない。先ほどカトリック教徒のところでもお話ししたように、イタリア人によってアメリカが侵略されている、脅かされているという考え方を表しています。
図表7

1924年に描かれた図表8もヨーロッパ人に対するネイティビズムの表れです。「THIS IS NOT A DUMPING GROUND(アメリカはゴミ捨て場ではない)」という表示があり、「TRASH」「CAST OFF」「RUBBISH」とか、右上にも、真ん中にも、左側にも「ごみ」と書いてあります。ヨーロッパからごみのような移民がアメリカに来ている、アメリカが望ましくない人間のごみ捨て場にされているという見方です。
図表8

文化偏見と関連して、もちろん人種的なネイティビズムも特に19世紀の中盤以降、高まっていきました。最初に人種的ネイティビズムのターゲットになったのが中国人です。1860年代にアメリカでは大陸横断鉄道が建設されました。そのときに特に西海岸で主要な労働を担ったのが中国人です。一つの鉄道会社では労働者の90%以上が中国人だったという記録もあるぐらいです。アメリカの大陸横断鉄道は中国人なしには絶対に建設不可能だったと言えますが、アメリカ人は中国人労働者に対して非常に強い嫌悪感を持ち、反発しました。
図表9の左側の風刺画は中国人が危ない人間として描かれています。アメリカの南部で黒人男性が白人女性を性的に脅かしているというのが、アメリカにおける人種差別の長らくの伝統です。この風刺画の場合は中国人がそのパターンに当てはめられていて、非白人である中国人がアメリカの白人女性を脅かしている、中国人がいると危ない、中国人がアメリカを侵略しているという言説につながっていきます。
図表9

右側は、ワシントン州タコマ市が中国人に対して「NO! NO! NO!」と突き付けている。中国人を追い払えという活動がコミュニティ、町として展開されていました。
図表10も当時の中国人に対する反移民感情を表した風刺画ですが、これは中国人に対するネイティビズムをどちらかというと批判的な観点から見ています。
図表10

中国がグレートウォール(万里の長城)のようなものを破壊して、そこから中国人がアメリカに流れてきている。それに対して、アメリカはいろいろなアメリカ人がレンガというかブロックを持ってきて壁を造っている。これも侵略説に対しての一つのレスポンスですが、よく見ると、「JEALOUSY」「COMPETITION(競争)」「UN-AMERICAN」「FEAR(恐怖)」と書いてあります。この風刺画が面白いのは、これを描いた人間が単純に中国人に対する敵意を礼賛しているのではなく、敵意の中身をよく考えていることです。中国人に対する排斥感情には、非常に働き者である中国人労働者に対するジェラシーや、このまま中国人が増えると、アメリカがアメリカでなくなってしまうのではないかという恐怖心がある。そのことをこの風刺画で表しています。
図表11は、中国人に対する風刺画の最後です。左側は、当時まだ建設の途中でしたが、ニューヨークの「自由の女神」を意識して作られた風刺画で、タイトルは「A STATUE FOR OUR HARBOR(我々の港の象徴となる像)」です。「ニューヨークでは『自由の女神』かもしれないが、カリフォルニア州のサンフランシスコの港には『中国人』がいる」ということで、中国人に対する反発心、敵意を風刺画に込めています。
図表11

中国人の像の頭部には後光が差しています。頭部を拡大した右側の画像で後光に書かれた文字を見ると、当時の中国人に対する敵意がよく分かります。「FILTH(汚れ)」は、中国人は汚いという偏見。「IMMORALITY(不道徳)」は、中国人女性は全て娼婦で売春をなりわいにしている、道徳観に問題がある中国人女性がアメリカにいることでアメリカの道徳観が損なわれる、道徳観念の危機だという偏見。それに関連して、「DISEASES(病気)」は、売春で性病がまん延するとか、偏見に基づく公衆衛生に対する懸念がアメリカ社会で広まっている。「RUIN TO WHITE LABOR」は、アメリカ人がとても受け入れられないような非常に安い賃金で働く中国人が来ることで、白人労働者の生活がめちゃくちゃになってしまうという考え方です。
これらの一連の人種偏見は中国人に限ったことではなくて、日本人にも適用されました。図表12の左側は日本人の鉄道労働者のイメージです。大陸横断鉄道ができたのはいいが、鉄道は常にメンテナンスを必要としました。さらに、鉄道会社は常に鉄道のネットワークを広げようとするので、そのための労働力が必要になりました。その労働を担った移民集団の一つが日本人ですが、日本人が移民してくると、中国人に対して行われたのと同じように、人種的なネイティビズムが展開されました。
右側は当時の新聞の「HORDE OF ASIATICS COMES TO MENACE WHITE LABOR」という見出しです。「HORDE(群れ)」は基本的には動物に対して使われる言葉で、人間に対しては使われません。「ASIATICS」は当時のアジア人、「MENACE」は「脅かす」という意味です。「アジア人の群れが白人労働者を脅かしに来た」という見出しが出ることによって、社会が反日系移民に傾いていきました。
図表12

図表13は、アジア人に対する偏見の例です。左側はカナダとの国境にあるアメリカ・ワシントン州における日系移民への敵意です。一番上にある「LITTLE BROWN MEN(小さい茶色の人間)」は当時、日本人に対して使われた言葉で、「Coming to America in Great Numbers(アメリカに日本人が大挙して来る)」。最後に「Japanese Immigration Problem is Becoming Serious(日系移民問題はとても深刻になっている)」とあります。
図表13

この新聞が出たのは1900年です。面白いことに当時の日系移民、日本からの移民の数はアメリカの移民全体の3%ぐらいです。実際にはとても少ない数ですが、こんなにたくさんの人間が来た、その問題がシリアスになっているということを書いた新聞記事が日々読まれることで、反日感情が高まっていきました。これは正に今アメリカ-メキシコの国境沿いで起きている状況です。メディア、政府が恐怖心や怒りをあおるような見出しやレポートを絶えず出すことによって、ネイティビズムの感情が高まっているという構造が指摘できます。
右側は、当時「HINDU LABOR」という言葉を使われたインドからの移民に対する風刺画です。彼らも中国人や日本人と似たような形で排斥されました。
今まで御説明したネイティビズムのさまざまな側面が、究極的には法律、政策に反映されていきました。
移民制限政策においては、ポリスパワーという概念が核になります。「ポリスパワー」という言葉は、警察機構ではなくて、自警力、自衛権と訳せます。コミュニティは外から来る脅威に対して身を守る権利を有しているという考え方です。
19世紀半ばまで移民は州政府に管理されていましたが、19世紀末以降、連邦政府が徐々に存在感を増す中で次々と国レベルでの移民制限政策が導入されました。ここで指摘したいのは、「外からの脅威」が、人種的なものとか、経済的なもの、ジェンダーやセクシュアリティーという性的なもの、無政府主義などの政治的な思想とか、さまざまな形で定義され、いろいろな種類の移民が入国制限や強制送還の対象になったことです。
例えば、中国人労働者、貧民、契約労働者、娼婦、犯罪者、病人、無政府主義者といった一連の集団の入国が禁止されました。契約労働者については、彼らがアメリカに来る前に既に何らかの労働契約を雇用者と結んでいたことから、雇用者が当時のアメリカの労働組合の目的を打破するために外国から連れてきたストライクブレーカー(スト破り)であって、非常に望ましくない人間だという考え方があり、入国を禁止されました。娼婦については、実際に娼婦かどうかは問題ではなく、この女性は恐らく売春目的でアメリカに連れてこられたなと移民官に判断された場合、入国禁止になりました。
日本人に関しては、20世紀初頭に日米紳士協定がアメリカ政府と日本政府の間で結ばれたことによって、日本からの労働者がアメリカに入国することが難しくなりました。
その後、読み書きができない人間や、アジアの大部分が入国禁止の対象に制定されました。アジアの大部分が対象エリアになったのは、アメリカ連邦政府がインドからの移民を制限しようとしたからです。
1924年はアメリカの移民史においてとても大事な年です。ギリシャ、ロシア、イタリアなど東欧、南欧からの移民が大幅に削減されると同時に、アジア系移民はほぼ全面的に入国禁止になりました。このときにビザや、今のUSボーダーパトロール(国境警備)のシステムが導入され、これ以降アメリカへの入国は非常に制限されていきます。
1930年代の世界恐慌時には、メキシコ系移民のみならず、アメリカ生まれのメキシコ系アメリカ人、アメリカ市民も強制的にアメリカから退去させられました。
冷戦時の1965年、一連の差別的な移民法が一度撤廃されました。しかし、後ほどお話ししますが、非正規移民が増えるという新しい問題が生じて、1986年、1996年、そして今に至るまで国境警備の大幅な強化、かつ、強制送還政策の拡大がされてきました。
3.米国のテーマ別移民政策
ここで、移民政策に関してテーマ別にお話しします。
一つは拘留(detention、ディテンション)です。今アメリカでディテンションが問題になっています。ディテンションセンターで移民の人権が無視されていたり、親と子どもが離れ離れになって二度と会えなくなるといったことが指摘されていますが、拘留のシステム自体はアメリカにながらくあります。
移民が一時的に勾留された施設として、ニューヨークのエリスアイランドが有名なものとしてあげられますが、カリフォルニア州サンフランシスコのエンジェル島にもあって、ここでは特にアジア系移民が拘留されていました。アジア系は基本的にアメリカに来るべきではない思われていた中で、アメリカ人の配偶者を持つ者、外交官、中流階級以上の商人などビジネスを持っている人間は、例外的に入国が許されました。ただ、彼らは自分たちの入国資格を証明しなければいけません。そのための資料やエビデンスを集めるのは非常に時間がかかるプロセスで、場合によっては3か月や半年以上拘留されることもありました。
と同時に、アメリカの移民法には絶えず問題がありました。どれだけお金を費やしても、どんな法律を使ったとしても、国境警備がうまくいかず、結果的にいろいろな形で移民が入国を果たしました。本来は移民法というドアがあって入れないはずなのに、その移民法がすかすかの網戸のようになっていて、ヨーロッパからの移民がそこをかいくぐって来てしまう。同様に、中国人がスコットアクトという法律の隙間を縫って入ってくる。それ自体は法律の問題がとても大きいのですが、移民が法律を破って密入国し、アメリカの社会、アメリカの国境を脅かしていると思われていました。
今話題となっているアメリカ-メキシコ国境のお話を簡単にします。そもそもアメリカとメキシコには国境があって、ないようなものでした。図表14の左側はアメリカ・アリゾナ州とメキシコの国境のイメージです。見てのとおり常に人間が移動できる状況で、パスポートやビザは一切なく、二国間の流動的な行き来が地元経済の礎でした。徐々に国境が整備されていくにつれて、右側のイメージが示すように、メキシコからアメリカ各地に列車でどんどん労働者が運ばれていきました。メキシコからの移民を促進しているのはアメリカの労働需要です。20世紀半ばには国の制度でゲストワーカーとしてメキシコ人労働者をアメリカに呼び寄せるというシステムがありました。
図表14

図表15の左側がゲストワーカープログラムの写真です。雇用者がメキシコ人の体格などをチェックして、「おまえは農業に適している。うちで雇おう」という形でリクルートする。アメリカの労働需要がメキシコ系移民を動かしていましたが、同時に、アメリカ経済が傾くと、メキシコ人は出ていけという感覚が生まれます。
図表15

また、そもそも移民法がある中で、雇用者はある種のガイドラインに沿って移民労働者を雇わなければならないのですが、多くの雇用者はそれらのガイドラインを面倒に思いました。法を遵守せず、ガイドラインを無視して、非正規にメキシコから労働者を調達してくるということが起こった結果、アメリカの中で「非合法のメキシコ人が増えている。由々しき自体だ。」という感情が高まりました。
アメリカの中では、メキシコ人に限らず、非正規移民が問題だ、彼らが法律を破っている、つまり、彼らにだけ問題があるというイメージが政府などによって作られていきます。しかし、その構造をしっかり見てみると、決してそういった一元的、一方通行的な話ではなく、アメリカ人雇用者が簡単にメキシコ人労働を調達しようとして、法律を無視している。そのような構造があることを指摘したいと思います。
右側は1950年代の新聞のイメージです。以前はカトリック教徒、中国人、アイルランド人だったけれども、今度はメキシコ人が南から国境を脅かしている、インベイドしているという言説が出てきました。
アメリカの移民政策のもう一つの特徴として、移民官吏が持っている権限があげられます。アメリカでは、19世紀末から移民官吏はPlenary(絶対的な)powerと呼ばれる権力を保持しています。誰が入国できる、誰が退去させられるという一連の移民政策は国家主権の一部であり、司法による合憲性チェックの対象外だという考え方があるのです。
基本的に政府が作る政策は裁判所によって合憲性が常にチェックされるべきです。例えば人権を無視した法律、政策を政府が作ると、「それは違憲です」と裁判所から指摘されるのが近代国家のシステムの一部ですが、国家主権の一部とみなされる移民政策は司法によるチェックの外にあり、仮に移民政策が人権を無視しても、それは違憲とはされない構造がアメリカ移民政策の歴史の中で生まれました。移民政策の違憲性、合憲性は裁判所によって問われません。この考え方は非常に深刻な、問題のある考え方です。つまり、移民官が外国人に対して何をしたとしても、そのアプローチが問題とされません。移民が、こういう形で送還された、入国を拒否されたと裁判所に持っていこうとしても、裁判所は「これは裁判所の管轄の外です。我々はその違憲性について吟味することはできません」と言えるのです。
移民官が移民の入国の権利を決定する特別尋問委員会(Boards of Special Inquiry)というシステムが19世紀末、アメリカ移民政策に導入されました。入国管理事務所のオフィスの一角で4~5人の人間が移民を尋問して、この人間に入国する権利があるか、ないかを決定するのですが、これ自体は裁判ではないので、ここでどんな形で入国を禁止されたとしても、その移民はその決断を争える立場ではありませんでした。
このシステムの問題と関連して、「Likely to Become a Public Charge」という移民法の条文がありました。「Public Charge」は「公共の負担」、「Likely to」は「なるかもしれない」「なり得そうだ」という意味で、アメリカ到着時に貧しくて救貧院、シェルターに入るしかないなど、公共の負担になり得そうな人間は入国させるべきではないという条文です。
問題は、何をもって「なり得そうだ」と決めることができるのかということです。明らかに貧しい身なりをしていたら分かりやすいのですが、スーツを着用した非常に豪華な見た目の中流階級のアジア人が、「おまえはアジア人で英語が苦手だから、恐らくアメリカではお金を稼げず、救貧院に入りそうな感じがある」とか、実際の経済的なステータスとは全く関係がない独断的な見方で入国を禁止されることがありました。
このようにアメリカの移民政策の歴史において、入国資格と人種は密接に関わっていました。その中で、チェイ・チャン・ピンという中国人に対して、「異なる人種で、我々に同化しない外国人が危険とみなされた場合、その集団は入国を許されるべきではない」という連邦最高裁判所の判決がありました。チェイ・チャン・ピンは単純に中国人だから、つまり、白人ではないからという理由で危険とみなされ、入国を禁止されました。これは憲法違反ではないかという意見がありましたが、移民官吏は絶対的な権力があるというのが最高裁の判決でした。
最後に市民権のお話をします。最初に申し上げたとおり、近年、移民政策の一部として、出生地主義に基づく市民権を廃止しようという動きがあります。非正規移民、特にラティーノ(ラテンアメリカからの移民)の子供がアメリカ人になる限り、ブラウンと言われる非白人の人口は増える一方です。それが嫌だという人種差別的な見方があって、それに呼応しているのが、出生地主義に基づく市民権をやめようという動きです。
そもそもアメリカで市民権がどのように発展してきたかというと、最初の合衆国憲法には誰がアメリカ市民であるかを定義した条文がなく、アメリカ史の最初の100年間、アメリカで生まれたらアメリカ人になるのだろうと皆が想像しているだけでした。憲法がアメリカ市民を定義していない状況の中で、1857年に連邦最高裁判所が、アメリカにおいて黒人は奴隷であっても自由であってもアメリカ市民ではない、黒人の誰もアメリカ市民にはなれないという判決を出しました。奴隷制の廃止につながった南北戦争(1861-1865)の後、黒人を守るという目的で、米国領土内で生まれ、あるいは帰化した全ての者は合衆国市民であるということが合衆国憲法において初めて明文化され、市民権が定義されました。これが憲法修正第14条です。
とはいえ憲法修正第14条には、常に人種偏見がついて回って、アメリカで生まれたとしても、親が中国人である人間には憲法修正第14条を適用するべきではないという意見がありました。それに対して、1898年に連邦最高裁判所が、アメリカ生まれの中国系アメリカ人の市民権をめぐるワン・キム・アーク判決で、「親が中国人であっても、アメリカで生まれたのであれば、この人はアメリカ人です」と言い切りました。
憲法修正第14条にも関わらず、人種的マイノリティーの市民権は無視されることが度々ありました。1930年代の世界恐慌のときは、メキシコ系アメリカ市民がメキシコに強制送還されました。また、有名なエピソードかもしれませんが、第2次世界大戦中は、日系アメリカ人が強制収容所に収容されて、アメリカ市民としての権利を無視され続けました。
4.終わりに
アメリカの移民政策を歴史的に考えると、幾つかのテーマが浮かび上がってきます。1つは「侵略」説の中心性です。アメリカ史において、移民がアメリカを侵略しているという考え方はことあるごとに現れます。昨今「不法移民」「非正規移民」という言葉が多く聞かれますが、その構造がメディアや一般的な言説の中には出てきません。一体何が非正規移民を生み出しているのか、アメリカ人はそれに一切責任がないのか、なかなか説明がなされません。逆に、「メキシコ人は不法滞在者だから強制送還しよう」という意見だけが切り取られ、無責任に広がっているのは問題です。
トランプ政権下において、非正規移民はけしからぬという話になると度々出てくる意見があります。それは特に白人のアメリカ人の中で多いのですが、「我々の先祖は非常に美徳、民度が高く、合法的にアメリカにやってきた。なのに、今の連中は法を破って非正規に入ってくる。なぜこんなに法律を守らないのか。」という言説です。
これは歴史的な背景を全く理解していない見方です。100年前の当時、ヨーロッパ人は20ドル、30ドルのキャッシュを持っていればアメリカに入国できました。私がいろいろな法律を説明しましたが、ヨーロッパ人が入国制限される率は2%未満です。移民官吏たちも積極的に移民制限をする気はさらさらなくて、到着したら「どうぞ、どうぞ」といわんばかりにプロセスをこなすだけでした。入国を希望するヨーロッパ人の圧倒的多数が簡単に入国できた時代だったのです。
それに対して、今は100年前とは比べものにならないぐらい入国が難しい。お金、人員、時間を積極的に費やして移民を制限しようとしているのが今の状況です。今の移民の入国状況と、100年前のヨーロッパ系移民の入国状況とでは意味のある比較にはなりません。しかし、アメリカ社会の中では、今の移民を批判する意味で、昔の移民は民度が高かったという言われ方がされています。
これで終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)
○森本理事長 米国移民政策の大変難しい問題について、歴史的に分かりやすい御説明をいただきまして、ありがとうございます。
それでは、皆様から御質問をお受けしますが、まず、私から質問させていただきます。
我々は日常的に、ビザについて、種類もたくさんあるし、条件がいろいろ複雑で難しいし、抽選があったりして大変だという話を聞きますが、移民法などで移民を制限してきたアメリカは今、移民の質・量のスクリーニングをどのような思想、理念に基づいて行っていると理解すればいいでしょうか。
○廣田 移民が来ることでアメリカ人の労働・雇用が脅かされてはならないというのが今も昔も変わらない基本的なスタンスです。だからこそ、私のような外国人の大学教員、研究者も含めて、積極的に労働マーケットに加わる移民の入国を質的・量的に制限しています。
今のビザとかの必要要件はモダンなシステムですが、その思想的な起源は19世紀に生まれました。最初は、講演の初めの方で申し上げたように、既に労働契約を持っている契約労働者など特定の労働者を排斥しようとしました。20世紀から21世紀にかけては、各労働市場の需要と供給を考えた上で上限を決めるといった制度が導入されましたが、アメリカ人の労働・雇用を脅かすものであってはならないことは一貫してありました。
○質問者A 現在、日本でも移民が問題視されるようになり、排外主義的な意見や思想を表明する人も増えたように思います。現在の日本の状況をどう思われますか。また、アメリカの移民に対する問題意識との共通点、差異について御意見を伺いたいと思います。
○廣田 日本における反移民感情、排外主義では、もちろんゲストワーカーとか、労働者に関する話もありますが、それよりも、日本人は代々美徳がある集団で、非常にすばらしいコミュニティを築いてきた、そこに外国人が入ってくることで社会から日本的な美徳が失われようとしているという文化的な話、もっというと選民思想的な見方が中心になっているように思います。もちろんアメリカにもこれと似たような話は沢山あります。しかし、アメリカでは、宗教や人種と同じく、経済、労働に関する話が中心になります。
同時に、アメリカと日本に共通する状況も指摘できます。それは移民排斥が、実際に排斥するか、しないかではなくて、ある種の政治カードになっていることです。政治家にとって移民排斥は自分たちの票を増やす道具です。トランプ大統領が「私は1,300万人の非正規移民を全員強制送還します」と言ったとしても、それはできません。それでもトランプは、票が入るから、彼に共感する人間が聞きたいアグレッシブなことを言うのです。
日本でも、排外主義を掲げることが政治家にとって一つのパフォーマンスになっています。実際に排外主義的なものを政策として導入し進めていくかは全く別の話で、自分たちの政治的な基盤がしっかりすることを分かっていて排外主義を掲げている。アメリカと日本、そしてヨーロッパでも、排外主義が政治カードとして機能しているといえます。
○質問者B 時の政権、為政者の思惑により移民政策が展開されていることがよく理解できました。米国経済は、ここまでの成長を支えた移民を強力に制限した場合、これから成長を期待できるのでしょうか。
○廣田 私は経済学者ではないので、数値などのデータを使って明確にお答えすることができませんし、歴史家なので、先を予見することは私の専門領域ではないのですが、それを踏まえた上で申し上げると、移民を強力に制限した場合、経済成長は難しいのではないかというのが私の実感です。
それ自体は歴史的な考察に基づいています。10年ぐらい前にアリゾナ州とかアラバマ州とか南部の諸州が、基本的にラティーノというヒスパニック系をターゲットにした強力な移民政策を導入しました。その結果、ヒスパニックの労働者の多くが自主的に離職して州を離れました。移民の労働力なしには経済が回らない現実の中で、移民の労働力を失ったアラバマなどの州は経済が非常に落ち込みました。では、アメリカ全体ではどうなるのか。申し上げたように、やはり私はデータ等を用いてお答えすることができませんが、歴史的考察に基づくと、経済成長を期待するのは難しいというのが実感です。
それと同時に、そういう中長期的なことを政治家は考えない。彼らはどんどん排外政策に突き進むことで来期の再選のために票を獲得しようとしている。それが今の状況ではないかと思います。
○森本理事長 それでは、時間も過ぎましたので、本日の「資本市場を考える会」は以上とさせていただきます。
廣田様、米国移民に関する大変深い知識に基づく分かりやすいお話をありがとうございました。(拍手)
(本稿は、令和7年10月28日に開催した講演会での要旨を整理したものであり、文責は当研究所にある。)
御略歴
- 2012年ボストンカレッジ大学院より博士号取得。
- 専門はアメリカ移民史。特に米国における反移民感情、移民制限法・政策の歴史を研究している。
- 研究書、論文の他に、ワシントンポスト紙、タイム誌などを含むメディア媒体にアメリカ移民政史に関する論考を発表している。