歴代証券局長口述記録を読む(その2)
森本学(当研究所理事長)
1.佐藤 徹局長(1983年6月~1985年1月)
(佐藤局長は在職中に死去したため、口述は橋本貞夫氏(当時証券局審議官)が行っている)
佐藤徹氏は1954年に入省し、課長時代までは13年間主計局で勤務して、そこまでは完全に主計畑のキャリアだった。証券行政は、若い頃、理財局経済課(のちの証券局企業財務課)を経験し、証券局総務課長(2年)を経て局長に就任した。局長就任時には、証券行政についてかなり自身の経綸を持っていた様に見受けられる。
佐藤氏の人となりは、「なかなか精悍な感じで、人によっては非常に怖く見える」、「仕事を前向きにやろうということで、…問題になっていることを積極的に解決しようという意欲が非常に強かった」と言われている。佐藤氏は、部下には「自分は兜町の信長である」と言って、「織田信長を自任していた」。
永野健二氏によれば、佐藤氏は「凄まじい変革のパワー」の持ち主であり、証券局長時代の「仕事ぶりは鬼気迫るものがあ」り、「(肝臓がんにより)壮絶な死を」遂げた1)。
⑴ 東証会員権問題
1983年11月のレーガン大統領訪日で、いわゆる「日米円・ドル委員会」が設置され、東証会員権問題は、その第3回会合(翌84年4月16、17日、ワシントン)で取り上げられた。
その会合前の3月24日、リーガン財務長官は訪中の帰途日本に立ち寄り、竹下大蔵大臣と会談した。その際、同長官は「東証会員権問題について、…我が国の金融市場が閉鎖的であることの象徴だ」と強く主張した。そのため、「これを何とかしないと日米問題は収まらないなということで、…(次の第3回会合に)出席する藤野審議官に竹下大蔵大臣からリーガン財務長官あての書簡を託そうということになりました」。
書簡の内容は、「『いろいろ難しいことがあるけれども、明示できないまでもしかるべき時期までにこの問題は解決できるように最善の努力を尽くしたい』というような、若干コミット的な文言で」、「若干フライングかもしれませんけれども思い切ってやった」。
ただし、「それだけ書く以上は、業界の根回しは」必要であり、東証・竹内理事長をはじめ「業界の有力者…20人を根回しして歩いた」。
「藤野さんはそれを持って円・ドル委員会に行っ」て、「(会合に出席した)シュプリンケル次官にこれを託した」。そのことを「国際電話で佐藤局長に報告したら、『いや、そういうものは直接渡すものだ』という指示で、3日ほどワシントンで待ちまして首尾よく渡すことができ、リーガンさんは大変喜んで『アプシエイトする』といってくれたそうです。…これで何とか収まったというような劇的な出来事でした」。
第3回会合の後4月19日に、竹下蔵相は東証に対して正式に検討の要請を行い、東証も特別委員会を作って検討していくこととなった(特別委員会は、85年3月に会員定数枠を拡大する方針を決め、86年2月に東証会員権の第1次開放(10社)が行われた)。
⑵ 格付制度の導入
当時の社債市場は、起債調整(発行銘柄の選別、発行額・発行条件の決定)が、「起債会」(大手行+大手証券)の下で、実質的に興銀を頂点とする「受託8行会」でなされていた。また、普通社債の有担保原則も堅持されていた。
「これには証券界も行政も企業も太刀打ちできないほど強固な慣習だったのです。これをどうにかしなければならないという声が発行会社側からも出てきまし」た。そこで、「まともにいったのではどうにもならないということから、『社債問題研究会』というのを作ったらどうかということで、経団連の花村仁八郎副会長を会長にして、経団連ベースで勉強会が発足しました(1984年1月)」。ところが、「銀行側はけんもほろろで、…(証券局の)資本市場課が音頭をとって何とか半年ぐらい運営してみたのですけれどもにっちもさっちもいかない」。
その頃、並行して進んでいた「日米円・ドル委員会」は84年5月末に報告書を出し、その中で、ユーロ円債については、適債基準(起債調整の際の銘柄選定の基準)から格付に移行する方向性が示された。また、(同時に公表された)大蔵省の(いわゆる)「現状と展望」では、「新たな債券格付機関の設立の必要性等の検討」が掲げられた。
こうした状況の下で、証券局は研究会での検討を「興銀にリーダーシップを委ねるからどうだ」と持ち掛けたが、「興銀の方はまだまだなかなか慎重」だった。佐藤局長は、「当時の興銀の担当常務と1対1で話し合われて、…そのやりとりが(陪席した資本市場課長の)金野君が大蔵省に30年いた中で一番印象深いものだったというぐらいの大激論だった」。「担当常務さんは、上司と調整したうえ、今度は、銀行局に相談に行かれたわけです。それがまた佐藤さんの怒りに触れ」た2)。
その後、研究会での検討は、「1か月ぐらいすったもんだして、ようやく方向が見えた」。その結論は、「新たな格付け機関の設立に向けて」という報告書にまとめられた(84年12月)。報告書は、「債券格付制度の必要性が現実のものとなっている」という認識を示すとともに、複数機関の必要性、格付機関の独立性、格付手数料の徴収などの留意点を指摘した。
以上のような過程を経て、翌85年に日系の格付機関3社が運営を開始した。格付機関の設立については、「ああいうものは自然発生的に起こるもので、役所がリーダーシップを取って作るところではない。また、何か天下りのポストのためか」というような批判もあった。また、格付制度の導入は、「投資情報の提供」のためとされ、その時点では、起債調整の見直しを迫るものではなかったし、普通社債の無担保化も進んでいなかった。しかし、格付機関の運用開始は、当時の(銀行主導の)起債慣行を掘り崩すポテンシャルを持つものであり、爾後の経過を見れば、社債制度改革に向けた大きな一歩だったと言うことができる。
⑶ 三局指導
「三局指導」とは、「日本企業発行の外債の主幹事は、証券会社の現地法人に限り、邦銀系の証券現法はなれない」という大蔵省(国際金融局、証券局、銀行局)の行政指導である。1974年頃から存在し、1993年に撤廃された〔ただし、5年間の激変緩和期間あり〕。
このような行政指導がなぜ生まれたのかと言えば、当時、邦銀系証券現法が主幹事を務めた日本企業の起債では、実質は日本(の銀行)で発行のアレンジが為されており、それは銀行の証券業務禁止の潜脱ではないか、という疑いがあった。この問題に対処するため、日本企業の外債発行では、銀行系は副幹事以下とし、主幹事は証券系でなければならないというルールが出来たのである3)。
ところで、1984年の日米円・ドル委員会では、円の国際化の観点から「ユーロ円債の自由化」が大きな議題となった。ユーロ円債の発行は、海外市場での証券取引であるが、通貨主権の考え方から、外為法上の許可制等〔一部域外適用〕4)となっていた。また、その運用も、発行体、発行件数・金額を厳しく制限するとともに、主幹事は日系の証券会社に限っていた。円・ドル委員会の報告書では、ユーロ円債の発行を「自由化」することとし、発行体・発行量を大幅に規制緩和するとともに、主幹事の「開放」を宣言した。即ち、ユーロ円債の主幹事に関しては、「指導、制限、要件は存在せず、今後、日本及び外国のすべての引受業者が自由に競争できる」(一部筆者が要約)ものとした。しかも、このことは居住者の「外貨建ユーロ債」についても同様であるとした(当時、日本企業の外債発行は、スイスフラン建てを除くとほぼ(ユーロダラー等の)外貨建ユーロ債だった)。
円・ドル委員会報告書は、その字面からは、邦銀系証券現法も主幹事になれるように見えるし、そう理解した人も多かった。また、行政指導を域外適用するというのは、国際化、自由化の時代にそぐわない印象もあった。銀行界は三局指導について、「外国の銀行系証券会社が堂々とやっているのではたまらない、逆差別だ」と主張した。
しかし、証券局は断固として「三局指導」堅持の立場をとった。佐藤局長は、84年の箱根講演5)で、「(三局指導は)私は国内問題だと理解しており、あらゆる場所でそうした考え方を申し上げて来ている」、「(円・ドル委員会報告書で主幹事が自由ということについて)現在は、全くの誤解か、あるいは意図的に誤解をして様々な議論がなされている」、「それは国外で行う場合に自由なのであって、日本国内で行うことまで自由であるということを意味するものではない」、「ほとんどの現地法人の実態をみると、幹事業務を行うことができる人的な能力を備えているかどうかについては極めて疑問である。このような状況では証取法に触れる行為が国内で起こることは九分九厘必然的であり、そうした状況の中で三局指導を変える気は毛頭ない」と述べている。
大蔵省の中でも、証券局は孤軍奮闘した。「三局指導に関しては、一度、次官室で銀行局、証券局、国金局が入って大会議があったときも、やはり佐藤局長がいろいろ議論され、…相当の迫力をそばにいて感じました」、「『三局指導』で大臣室で激論をした」などと述べられている。
「三局指導」は、結局、円・ドル委員会報告書(1984年)後も存続し6)、1993年に撤廃された。それは、金融制度改革(子会社方式による銀証相互参入)及び最終的な社債制度改革(受託銀行制度の廃止。社債の無担保化、起債会の廃止は既に実施されていた)と同時だった。
2.岸田俊輔局長(1985年2月~1986年6月)
岸田俊輔氏(1955年入省)の大蔵省におけるキャリアは、国際金融局及び国税庁が長く、そのほか官房に数年間勤務しているが、証券行政の経験は全くなかった。本人も、「佐藤局長がお亡くなりになって、私は(昭和)60年2月に国税庁の次長から急遽証券局長を拝命いたしました。それまでは、…税と国際金融を若干やっただけで証券行政ないしは銀行行政、それにまつわる理財などとは、全く関係がなく、ある意味で全く予備知識なしに証券行政を託された」と述べている。
岸田文雄元首相の叔父であり、岸田氏の父及び兄(岸田文武)も衆議院議員であった。退官後は、広島銀行会長を務めている。
岸田氏の人となりは、底抜けに明るく多弁で、部下の話もよく聞いたと言われている。岸田「ちゅんすけ」と綽名されていた。
⑴ 外国証券業者の対日進出と各国との金融協議
外国証券業者の対日進出は、その頃にわかに活発化し、1982年末に6社7支店だったものが、85年末には20社22支店に達した。「当時は、外国が進出を希望していた一番華やかな時代でございまして、要するに資本市場はこれだけ伸びてきておりますし、株式も非常に魅力のある時代ということで、…業務課に青い眼がいわゆるお願いに日参するという状態」だった。
当初は、米国系、英国系が進出してきたが、ヨーロッパ大陸系が進出を希望するようになると、「いわゆるユニバーサル・バンクの免許の問題というのがどういうふうに解決するか」が問題になった。「ドイツ、フランスあたり…をそのまま支店を認めて証券業務を認めるということになると、(日本での銀証兼営になり)65条の抵触問題で証券界がとても収まらない」。そこで、「いわゆる『50%ルール』というのを捻りだしまして」、「(最初に進出した)ドイッチェ・バンクはジーメンスと何かで…株式を持ってもらう子会社を作って、それが進出するという形」をとった(1985年12月免許)。
また、「ドイッチェ・バンクとその関連会社が同じ建物ではいけない」などの条件が付された。さらに、名称が問題となり、「結局、最後は『ドイツ銀証券』と初めて『銀』の字を入れ」ることは「やむを得ない」ことになった。
ところで、日米円・ドル委員会(1984年5月報告書公表)の後に、それに触発されて、日英金融協議(84年10月~)が開催され、さらに、ドイツ(85年6月~)、フランス(86年~)、イタリア(同)、カナダ(同)とも金融協議が持たれた。それら金融協議の主題は、各国金融機関の対日進出であったが、当時はレシプロの考え方が強かったことから、相互の進出の件数、条件について複雑な折衝が行われた。
例えば、日独金融協議の際、「ドイツのうるさい大蔵次官ティートマイヤー〔のちの連銀総裁〕…が、『それ(ドイツのユニバーサル・バンクの在日証券支店)を認めてくれればフランクフルト市場ないしはドイツマルク市場における主幹事を日本に認める』と。それを認めない限りにおいてはうちの方も認めない」と主張した。それに対し、「こっちは何を出したかというと、フランクフルトの日本の銀行の支店の支店長を…ドイツ語の試験をするのは不愉快だという話を…やって、あのとき以来英語に変わったはずです」。
「フランスなどもこちらが出る数と向こうが入ってくる数とこれもレシプロというわけで、ヨーロッパとの間ではだいぶその議論をした」。「ですから、それを兼ね合いながら、日英、日米、日仏、日独の交渉をやった」。
⑵ 投資顧問業法の成立
当時、日本には米国のように投資アドバイザーを規制する法律(1940年投資顧問法)はなく、無数にある「街の投資アドバイザー」は放任されていた。そうした中で、「投資ジャーナル事件(首謀者、中江滋樹)」が起こり、1984年8月に警察の捜査が入った。中江滋樹7)は、かねて株式市場では仕手筋として派手な動きをみせていた(「兜町の風雲児」、「投資の怪物」)が、投資家から数百億円を集めたものの約定通り返金できなかったため、詐欺罪の疑いで逮捕された(85年6月)。
投資ジャーナル事件は、投資家被害の人数、金額が大きく、重大な社会問題となったことから、大蔵省は速やかに投資顧問への規制導入の方針を打ち出した(84年8月)。投資顧問業の規制については、その以前から証券界に導入論8)があり、また、政界でも社会党の堀昌雄議員が投資顧問業法の制定を提唱していた。岸田局長は、「野党の堀さんが力を入れており…売買一任勘定というのは非常におかしい9)。投資顧問会社を作って、投資一任勘定をやはり作るべきであるという話になった」と述べている。
一方で、「投資顧問ができて十分機能し出すと、年金運用の対象にどうしてもなる。これは頭の中には常にあったわけですけれども、信託会社が気にする」。当時、年金運用を独占していた信託銀行や保険会社は、当然、反対の立場だった。また、証券局内には、無数にある街の投資助言業者を規制・監督するのは困難ではないか、という慎重論もあった。しかし、当時の佐藤局長は、投資顧問規制を証取審に諮り、法制化する決断をした10)。
日本の投資顧問業法制定に対しては、海外の関心も強かった。「例えば、日英交渉のときに、彼らの頭にあったのは投資顧問業の話だった。…投資顧問を平等に扱ってくれということを日英交渉の最初から言っていた」、「アメリカも当然ですし、やはり外国は当初から一斉に出てきた11)」。
証取審では、1984年12月から投資顧問規制のあり方について検討を開始し、10回の審議を経て、85年11月に報告書を取りまとめた。報告書では、(規制の無かった)投資助言業務のみならず、(事実上禁止されていた)投資一任業務についても新たな規制を導入することを提言した。証券局は、この報告書を受けて法案(新法)作成を進め、86年3月に法案国会提出、同年5月に法案は成立し、同11月に施行された。新しい規制の導入、新法の制定としては、異例のスピード対応だった。
国会では、(堀昌雄議員が居て)「与党が出して野党が応援してくれれば、この法案は絶対に間違いがないというふうに言われておりました」。そして、実際に法案は順調に成立した。「堀さんは『証券と投資信託12)と、そして投資顧問でようやく完成するのだ』と言っておられました」、「(堀昌雄さんは)相当思い入れが強かった方だったと思います13)。やはり日本の証券界について非常に功績を残されたと思います」と岸田局長は語っている。
投資顧問業法の制定に当たっては、一部の業界関係者の強い反対はあったが、投資ジャーナル事件が社会問題化していたことから、規制導入は不可避ということで押し切ることが出来た。後世から見ると、資本市場にとって投資顧問業は不可欠のピースだった訳であり、投資ジャーナル事件を奇貨として(投資一任業も含めて)機敏に法制化した証券局の対応は評価に値するものだったと言えよう。
3.北村恭二局長(1986年6月~1987年6月)
北村恭二氏(1956年入省)は、銀行局での勤務(金融制度調査官、総務課長など)が長く(8年)、他に理財局国債課長を務めるなど、当時の典型的な金融官僚であり、官房(総務審議官など)も数年経験している。証券局での勤務はなかった。退官後は、大阪証券取引所理事長を務めている。
北村氏の人となりは、紳士的で能吏タイプだったと言えよう。
北村氏は、証券行政を担当するに当たって次のような考えを述べている。「やはり、銀行・証券の間の業際問題が常に底流にございまして、…何かの問題を取り上げると、銀行・証券という背後の業界の業際問題というものが常にでてまいりま」す。「たまたま銀行局長が平澤銀行局長でございまして、従来からいろいろ仕事を通じて意見を交換している間柄でございましたので、何とかこういう業際問題というものに新しい展望を開けないだろうかということを同時に考えておりました」。
⑴ 社債発行市場のあり方とCP市場の創設
1986年12月の証取審報告「社債発行市場の在り方について」は、国内社債市場の旧弊な制度・慣行の抜本的な見直しを求めるものだった。報告書は、「我が国の普通社債の発行というものが非常に低迷しておりまして、むしろ海外での起債が非常に増えている」状況の中で、「有担原則の見直し…無担保の普通社債や転換社債の適債基準を緩和すべしとか、あるいは起債の仕組みの改善、これはプロポーザル方式の導入といった」点について提言した。
また、北村局長は、「私募債市場の自由化ということをかなり積極的にや」ったと述べている。具体的には、当時の(一度公募債を発行した企業は以後私募債を発行できないという)ノーリターン・ルールの撤廃、発行上限額の引上げなどが行われた。「これはまさに業際問題なのです。…私募債と申しますのは銀行の分野であり、公募債というのがいわば証券界の分野であるというような認識」があった。「そういう利害関係は多少あるとしても、やはり全体として日本の普通社債市場というものが低迷しているということに対応して何かしなくてはいけないということで意見が一致するというような中で、」この問題に取り組んだ14)と述べている。
CPの導入については、それまで銀行の抵抗15)が強かったが、この時期に市場創設に向けた検討が行われた。「コマーシャルペーパーにつきましては、これもまさに業際問題の最たるもので、…(証取審の)レポートでは…両論併記になっておりまし」た。そして、「今後の対応といたしましては、…『今後検討が進められていくことが望ましい』といったような、要するに棚上げのトーンになっていた」。
問題は、「要するにコマーシャルペーパーというものは有価証券なのかどうかということで、有価証券であればこれは証券界の分野であり、手形であればこれは銀行界であると」いう点だった。「平澤銀行局長といろいろ意見を交換しておりましたときに、やはりこれは日本の短期金融市場の現状、あるいは企業の資金調達手段の多様化という点からいっても、これは導入を急ぐべきだ。…(証取審の)レポートでは棚上げにしてしまっているけれども、これは行政的に両方で話し合えばできるのではないか…ということで二人の意見が一致し」た。
それから、「両局長がそういう大枠を決めてしまいまして下に下ろし」て、具体案16)作りをした。「あと(昭和)62年の4、5月に実は金制調、証取審の主なメンバー、少人数でコマーシャルペーパー(CP)懇談会というのを作りまして、そこで具体案を審議していただいて了承を得るという形をとりました。その後、それぞれ金制調、証取審にかけて了承してもらうという手続きをとりまして、導入を決めた」。
「(このCP問題の解決は)業際問題でできるだけ何かそういうところから突破口を開いていく、新しいものは相互乗り入れでやろうという考え方を二人で位置付けしたわけでございます」。
⑵ 東証会員権問題
東証会員権については、立会場内のブースの増加可能な範囲で増枠することとし、1986年2月に第一次開放(10社、うち外資6社)が行われた。しかし、それは当時の海外金融機関の旺盛な対日進出意欲の前には、いわば焼け石に水だった。
海外の金融機関と政府は、第一次開放の直後から東証会員権の更なる開放を強く求めた。「当時の東証の考え方というのは、…(現在は)ブースを物理的に増設できる余地がない。(昭和)63年5月に、計画によれば新しい立会場を拡張してブースを増設できるから、そのときまでに定数の増加ということを検討いたしましょう」というものだった。
しかし、「早くも会員権問題というのが火を噴いてまいりまして、いろいろなところで(東証と)やりとりが行われるわけであります」。「私ども、どういう会社が今後進出の申請してくるかというのがわかっておりますから、近いうちに50社近くまで外資系の証券会社がふえるかもしれない17)、そういう中で…6社といったような数とのバランスから言うと、これはかなり定数枠の拡大というのを考える立場にあるのではないか。…ともかくその後、竹内理事長とそういう話を何度もいたしました」。
1987年春になると、東証会員権の開放を求める各国の圧力は一段と強まった。4月には、「ハワード氏という(英国)貿易産業省の政務次官が来日して…『東証会員権問題についてはっきりとした考え方を日本側が、大蔵省が示してほしい。』と強く発言した18)」。また、「アメリカはシューマーという上院議員19)が団長になりまして、アメリカの議会が日本の市場開放を求める調査団を4月にやはり派遣してまいりまし」た。英米の要求に対する大蔵省の回答は、「新しい立会場の拡張は、翌年の5、6月頃にできるのだから、…東証がしかるめきタイミングで対応を発表すると思っております」といったものだった。
その頃、「(海外と接触の多い)財務官から私の方に『もうスケジュールを発表したらいいじゃないか』というようなお話がよくありました」。そうした状況の中で、「(東証の)特別委員会を5月中に作ろうかというような話まで…いきました」。「確かこれは金融協議の寸前だったと思いますが、そういう事情を金融協議で発言するということで対応をし」た。
その後、東証は特別委員会の検討を経て、1987年11月に会員権を22社開放することを決定し、そのうち外国証券業者16社が東証に加入することになった。
総じて、東証会員権枠の拡大は、国内的には、非会員証券会社の加入要望も強く、また会員証券会社の会員権価値の希薄化を招く、調整が難しい問題だった。一方で、国際的には、当時、通商・金融摩擦が激化する中で、必要以上に日本の閉鎖性の象徴として槍玉に上げられた感がある。そうした状況にあって、当局や東証の関係者のギリギリの対応で何とか決裂的な事態は避けられたのだった。
注釈
- 1) 永野健二『バブル』2016年新潮社
- 2) 永野健二によれば、この問題に関連して佐藤局長は、水面下で強力に興銀が「投資銀行」になることを働きかけていた。(興銀にとって)「『銀行』という冠をつけない証券会社になることが「投資銀行」への近道でもあった。そうでなければ、佐藤が権限を持つ、証券局の権限の範囲で事を進めることはできない。佐藤には、銀行局の案件になった途端、この話が進まないことはわかっていた」(永野健二 前掲書)
- 3) 1980年代は、制限的で高コストの国内市場を避けて、日本企業が海外で(ドル建てワラント債等を)大量に起債する現象が見られた(「国内市場の空洞化」、「海外起債ラッシュ」)。引受業務の規模も大きく、80年代後半のピーク時には、証券4社はユーロ債引受けランキングで常に上位を占め、89年には上位4社を独占した。
- 4) 非居住者のユーロ円債発行は、外為法上の許可制。居住者の外債発行は、(ユーロ)円建て、外貨建てともに審査付事前届出制だった(その後、これらの規制は、金融ビッグバンの「資本取引に係る事前の許可・届出制の廃止」により事後報告に移行した(1997年外為法改正))。
- 5) 証券業協会は、毎年夏季に箱根で代表者研修を開催し、そこで行われた証券局長の講演(通称「箱根講演」)は、証券関係者に注目された(同年の講演録は『証券業報』404号(1984年9月)に掲載されている)。
- 6) のちの藤田恒郎証券局長(1987年~88年)は、口述記録の中で、「私も国際金融局におりますときは、3局指導というのはもう古いのではないかというようなことも言っていたのですけれども、証券局に来て中身を見てみますと、…要するに国内を規制して海外に出ていくようにしておいて、海外に出れば、3局指導をやめて、銀行系の証券会社も主幹事ができるというのはちょっと不公平な議論だと思うのです。国内も完全に自由にして、その上で3局指導をやめる、こちらの方が筋道ではないかということを銀行局、銀行界の方にずいぶん申し上げたのですけれども、銀行界の方に『藤田さんは証券局に行って変節した』ということを言われました」と述べている。
- 7) 中江滋樹は、当初は会員向け株式投資レポートを発行していたが、「よく当たる」と言われ次第に有名になった。その後、投資ジャーナル社を設立して各種証券関連雑誌を発行して投資家への影響力を強めたことが、事件の下敷きになったと言われている。
- 8) 例えば、野村証券の相田雪雄氏は、将来の年金運用の重要性から、質の高い投資顧問業の確立を提唱した(『投資顧問業の法的整備を急げ』週刊金融財政事情1984年6月11日号)。
- 9) 証取法127条は、証券会社の「売買一任勘定取引」を一定の条件の下で認めていた。同取引は実際に盛んに行われていたが、顧客との紛争が多かったため、1964年に理財局長通達「有価証券の売買一任勘定取引の自粛について」が発出され、事実上禁止された。堀昌雄議員は、当時、同取引の禁止を強く主張していた。
- 10) 大蔵省が投資顧問への規制導入を対外的に打ち出した(山口次官記者会見)のは、投資ジャーナル事件への捜査開始と同日という素早い対応だった。山口次官は、「佐藤君が生きているうちに投資顧問業の検討を始めると言い出して、私が次官の記者会見…でそれを言ってくれということで言った」(岸田局長口述記録)と述べている。
- 11) 投資一任業の第一次認可(1987年6月)の56社中17社が外資系だった。
- 12) ここでは、投資信託の証券会社からの分離を指しているものと思われる。
- 13) 堀昌雄氏は、「投資顧問法の立案に際しても、佐藤証券局長と綿密な連絡をとりました」、「投資顧問法というのは、…〔昭和〕59年の暮れにアメリカに行っていろいろ…勉強したものなんです。…佐藤(徹)局長とそれを詰めている最中に彼が亡くなり、参りましたね」と述べている。(堀昌雄『国会25年』1986年堀昌雄記念出版企画委員会)
- 14) 証取審報告書は、「本報告書の提言に基づく公募債市場の自由化の進展状況を踏まえつつ、それとの調和の中で、私募債市場の自由化が進められ…ていくことが望ましい」と述べている。
- 15) 銀行が抵抗した理由は、①有担原則を崩し、信用秩序に悪影響を及ぼすことはないか、②メインバンク制への影響も無視できない、③融通手形を忌避している手形信用秩序に悪い影響を与えることにならないか等であった(『昭和財政史 昭和49~63年度』598頁)。
- 16) 国内CPの基本的枠組みは、①法的性格を手形とする、②取扱業者は金融機関、証券会社とする、というものであった。
- 17) 実際に、1987年末の対日進出外国証券業者の数は43社となった。
- 18) ハワード次官は東証竹内理事長と面会し、クラインオート・ベンソン、ベアリング、シュローダーの3社への会員権付与を要求した。その理由として、日本の証券4社はロンドン取引所の会員となっており、英国証券業者の会員が1社なのは相互主義に反すると主張した。また、英国金融サービス法の相互主義条項による報復も示唆した。
- 19) シューマー議員は、東証竹内理事長などに米国証券業者10社程度に会員権を付与することを要求し、即答を求めた。同議員は、当時、「米国市場と同等の参入機会を与えない国の金融機関に報復する」という金融報復条項(別名シューマー条項)を米国議会に提出していた。米国議会では、当時、「過剰黒字国に強制的に黒字削減を要求できる」という通称ゲパート条項の審議も行われていた。